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ま日記

─── 2000年08月 ───
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2000年8月1日 (火)

♪ メーリングリストから

おはようございます。 箴言(しんげん)とは旧約聖書の中にある格言集ですが、
「箴言」の「箴」という字は
昔の中国の鍼灸で利用した竹の鍼という意味があるといわれています。
箴言とは、いわば、「癒す言葉」という意味があるのです。

箴言は31章ですので、1日1章ずつ読めば、1ヶ月で終わります。
それを繰り返すことで、きっと
人生の「道理」について教えられることがあると思います。

今日は1日ですので箴言1章からの抜粋です。

*********************************
1:20 知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。
1:21 雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。
*********************************

私たちは「知恵を求めて」本に向かい、あるいは学校に行き、師を求めます。
そういう感覚をどこかで植え付けられてきました。

今朝の箴言によると
「知恵は巷(ちまた)に呼ばわり、広場に声をあげ
 雑踏の街角で呼びかけ、通路で語りかける」とあります。

寺山修司は「書を捨て街に出よう」と書き、
佐野元春は「街角から街角に神がいる」と歌っていますが、
街の雑踏の中で、「知恵」に出会えるというのは大事なことです。

箴言で教える「知恵」というのは
「神の知恵」であり「キリストの知恵」であり
「救いを提示する真理そのもの」なのですが、
そういうものが私たちの日常的な生活の場に
届けられているのだということになります。

神様からの愛と警告、赦しと真理は、
私たちの生活の場の中ではっきりと提示されているのであって、
何か特別な宗教体験や神秘体験がなければ
神様の知恵や救いにあずかれないというのは、
聖書の教えとは違います。

聖書の神さまは私たちの所に「走りよる神」であり、
私たちを「巷に出てきて探し出してくださる神」なのです。
あなたの「居るところに」来て下さる神様なのです。
問題は、
「歓迎しているかどうか」「聞こうとしているかどうか」
なのかもしれません。


2000年8月3日 (木)

♪ 恵嗣郎のコミュニケーション

恵嗣郎が、ベビーカーから妙に身を乗り出しているな・・・と
思ったら、地面にうつっている自分の影にむかって、
嬉々としてバイバイしているところだった。
自分がやめない限り、いつまででも根気よく
相手が手を振ってくれるので、
とても楽しい気分になれるらしい。

「ばいば」は バイバイのこと。
「ん、ま~」は おっぱいのこと。
「ば~ば」は パパのこと。
「ま~ま」は ママのこと。

そのほかにも、「りんちゃ」「だ~め」とか
意味のある言葉らしきものをいろいろしゃべる。

「ボール、ぽん、してごらん」とか、
「おもちゃ、箱の中に、ぽいぽいね」とか話し掛けると、
ちゃんと言われた通りにやってみせるところをみると、
こっちの話している内容も、
けっこう理解しているみたいな感じである。

恵嗣郎の反応の中でいちばん面白くて可愛いと思うのは、
おなかがすいているときの態度。
鼻声で甘えながら、私にまとわりついて離れないので

「おっぱいほしいの?」

とたずねてやると、
おっぱいという単語のところで

「うへへへへへ、うへへへへへ(そのとおり!)」

と、いかにも嬉しそうに笑う。
しかも、笑いながら さかんに手をぱちぱち。
このぱちぱちは、ちょうだいちょうだいの意味らしい。

この仕種が見たくて、毎回の授乳のたびに

「おっぱいほしいの?」

と ついついたずねてしまう。
うへへへへへ、うへへへへへ、ぱちぱちぱちぱち。
お約束なんだけど、何度見ても和むなあ~。


2000年8月4日 (金)

♪ お産の痛み

お産の痛みって、どんな感じなの、とよく聞かれるけど
表現できないよね。それに、もう忘れてるし。

というような話を、今日、教会でしていたので
私もそこに混じって

「うん、表現できないよね。
 あえて言えば、臨死体験って感じ?」

といったら、青年会の姉妹が
身を二つに折って無言で笑いこけていた。
なにがそんなにおかしかったんだろうか。

ちみも産んだらわかると思うんだがな~。

♪ 友達って

友達との関係の中で、あることが気にかかっていて、
ここしばらくずっと

「私はどうしたらいいんだろう」

と一人で祈ったり考えたりしていたのだが、
こないだ、神様がふと

「友達でいつづける、ということ」

とだけ告げて、
そのまま行ってしまわれたような気がした。
その言葉で100%納得できたわけではないけれど、でも、

「ふーーん、そうかあ、そうなのかあ」

という感じの余韻が自分の中に残っていた。

そんな折、実家で暇つぶしに朝日新聞を読んでいたら、
おすぎとピーコのどちらかが執筆している
ティーン向けの人生相談コーナーに、
なるほどと思わせる記述があるのを目にした。

「あなたはねえ、
(親友っていうのは、自分のことをさらけ出せる相手だ)って
 思ってるみたいだけど、それはちょっと違うんじゃない?
 親友っていうのは、
(この人のためだったら、何でもしてあげたいなあ)って
 自分が思える相手のことよ」

原文とはニュアンスが違ってると思うけど、
大筋としてこんなことが書かれていて、
それで、のこちゃんは はっと気がついたのだった。

ああ、それなら私も親友になれるんだなあ・・・

なんだかとっても嬉しかった。  

♪ 助言メモ

① 自分のための時間を取っておいてください
② 避けられない障害は、素直に受け入れてください
③ 寝る前に、大問題については話さないでください
④ 予定表を作ってみてください~ ⑤ 神の助けを求めてください

♪ メーリングリストより

箴言5からの抜粋です。

5:9 あなたの栄えを他人に/長寿を残酷なものに渡してはならない。

***********************

あなたの「栄え」と訳されている言葉は
別の訳では「尊厳」となっています。

尊厳が他人に渡されるというのは
「知ること」「決める権利」「自由」が他者によって否定され、
あなたに真実が知らされず、決定権が奪い取られ、
自由に決めることを許されず、
他者が決めた枠の中でのみ生きることが許されるという
状況のことでしょう。

尊厳の基本は
「真実を知ること」「自己決定できる状況が許されること」
そして「決定に際して自由が確保されていること」の
3点だと言われています。
それらが守られる家庭、社会でないと、
何とも不自由な世界、本当のことを知ることができない、
何かに縛られた社会になってしまいます。
尊厳をもって生きることは、
主体的に生きるという姿勢と重なっています。

でも、ある高齢者の方々は、
不自由で希望の持てない状況にすでに置かれています。
ある意味で、長寿が残酷としか感じられない時代がすでに来ています。

高齢者の存在がうとまれる社会には
尊厳が大切にされる雰囲気はありません。
長寿が、残酷な仕打ちを受けるときとは、
社会からの孤立感と、
まるで動物園の檻(おり)の中におかれているような、
まったく自由のない、遠慮だらけの生活に追い込まれてしまった時でしょう。
尊厳への欲求を「わがまま」と片付けられてしまう時です。

高齢者を自負している方々は、
もう少し、わがままを言ったほうが元気になるかもしれませんよ。
駄々をこねるのではなく、尊厳への希求です。
(この辺のバランスが大変難しい。)
若いと自負している方々は、
もっとお互いの尊厳を大事にする努力が必要かもしれません。

♪ メーリングリストから

箴言4からの抜粋です。

4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

***************************

私たちが守るべきものはたくさんあります。
自分の健康、自分の立場、自分の家庭、自分の持ち物などなど、
いくらでもあげることができます。
そして私たちは知らず知らずのうちに、
守るべきものの多さと、その責任の重さに圧倒されてしまうことがあります。
「大人になりたくない」症候群はそんなところに潜んでいます。

箴言ははっきり、私たちが何を最優先すべきなのかを教えています。
それは気持ちが良いほど単純明快な言葉で教えられています。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」

「心を守る」というのはどういうことなのでしょう。
どういう風にすればよいのでしょう。
一般的には、身体だけでなく、心が死なないように、
栄養を補給し、その内側の汚れを清め、
心の内側に希望や感謝や愛があふれるようにすることです。
内面的ないのちの補給です。
希望を維持し、愛を育て、
自分自身をさわやかに保つことが求められているのです。
この作業は、人間各自に与えられた大きな責任です。

あなたの心が元気なら、
その元気はあなたの全身からみなぎってくるでしょう。
あなたの心が清ければ、
あなたの存在から清い雰囲気がかもし出されるでしょう。
あなたの心に感謝や希望や愛があるなら、それらはきっと
あなたの生活の中に知らず知らずのうち輝き、あふれ出てくるでしょう。
心が元気なら生きる勇気が湧いてくるのです。

それではどういう風にすればよいのでしょう。
読書や思索は心を豊かにしますし、音楽鑑賞なども心を豊かにしてくれます。
しかし、心を清くはしてくれません。
愛を感じることがあっても、なかなか愛の人にはなれません。

聖書は、明確に
イエス・キリストとのかかわりの中でこそ、
私たちの心が取り扱われ、心が一新され、
その疲れが癒されることを教えています。
イエスキリストの十字架の出来事は、
私たちの心を生かし、清め、希望を与えるためだったと聖書は教えています。
キリストの言葉とキリストの出来事に心を向けて見ることが、
「心を守る」作業の最大の一歩なのかもしれません。

各人に提示されている夏休みの宿題。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。」
ところで、あなたは、どういうふうに心を守るつもりですか?


2000年8月5日 (土)

♪ 今日食べたもの

・朝

トースト2枚(マーマレード付き)
コーヒー牛乳
トマトと焼き豚
ニンジンジュース

・昼

ひじきと炒り卵の混ぜご飯
モロヘイヤと豆腐とニンジンの味噌汁
昨夜の残りのほうれんそう餃子
シューマイ
ハッシュドポテト

・夜

ハヤシライス
レタスとトマトとアスパラと焼き豚のサラダ
ジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉のスープ

♪ 捨てる技術

スーパーミッション2000の帰りに、恵比寿の三越で
「捨てる技術」という本を買う。

見ないで捨てる。
読まないで捨てる。
「しまった!」を恐れずに捨てる。・・・
なるほどなるほど。

ふつうは、高い家賃払って狭い家に住んでるんだもん、
物が多いのはかえって不経済で不便だよなあ。


2000年8月6日 (日)

♪ 私になにをしてほしいのか?

最近、祈るたびに神様の応答を感じる。

ちょっと前までは、
そういう生き方って、自分の中では憧れだった。
クリスチャンとして、とってもかっこいいと思っていた。

たしかに、祈るたびに
神様が答えてくださる人生というのは、
とても幸いだと思う。

が、祈っている私自身は
ちっともかっこよくないということが判った。
身にしみて判ってきた。

かっこよくないどころか、
もうどうしようもない だめだめちゃんである。
ホントに生きてていいんだろうか、と
ときどき自問自答してしまうくらいの
救いようの無さである。

(救われてるんだけども。)

できない自分。
そうでありたいけれど、
そうなれない自分に葛藤している。

でも、そこから目を背けてはいけない。と思う。
いや、思うんじゃなくて、昨日ダーリンが
目を背けたらいけないんだよ、と教えてくれたんで
あ、そうなんだ~、と自分も理解したのだ。

「自分の罪深さ」と「神様の赦し」
その両方が、常に視野に入っている必要があるんだよ。・・・
(信仰によって私は許します!) と言って、
すっかり許したつもりになって、
本当は許せていない自分の罪深さを見つめずにいるのは
クリスチャンじゃないんだよ。・・・

言い方は違ったけど、
そういうふうに教えてもらったんだっけ。

大事なことだったんだなあ。

今までの歩みは
なんだったんだろうなあ。

さて・・・

こう書いてしまうと
なんだか嘘くさいが、
さっき祈っていたら、神様が

「私になにをしてほしいのか?」

と言われたので

「あますところなく打ち砕かれることです」
「私の肉を燃やしつくされることです」

と答えたのだが、そう言いながら、
これと同様の台詞が出てくる聖書個所を思い出して
しみじみと泣いてしまった。

なぜなら、
この言葉をかけられた生まれつきの盲人と、自分とは
まったく同じなんだなあ、という気がしたから。
そして、そういうみじめな自分に
親しく近づいてきてくださる神様を、
本当に慕わしく感じたからだった。

ほかにもいろいろ懇願したんだけど、
まあ、今の私の祈りの焦点は「自分の罪深さ」にあるので、
上記のような気持ちが第一希望というか、
願いの9割を占めていた、と思う。

神様がこの祈りをたしかに聞いてくださった、という
すっきりしたような、がらーーーんとしたような気分で
今日記を書いている。

-主よ。
-わがたましいは、
-あなたを求めて絶叫しています。


2000年8月9日 (水)

♪ メーリングリストから

箴言9からの抜粋です。

9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。

**********************************

今朝、選んだ言葉は、箴言における「主題」の言葉です。
別の章にも何回かに出てきています。

畏れるというのは「怖がる」というのと違って
「畏敬の念を持つ」「礼拝の心を向ける」という意味があります。
人間に生来与えられている
「宗教心」と結びついているものとも言われています。

人間として成長する過程の中で、
まず、人のものと自分のものの区別がつけられることが
大人への第一歩であり、
やがて「自分を超えた存在」への憧れや、思いを持つのは
極めて当然と考えられます。

子供たちの、
「ウルトラマン」や「ポケットモンスター」などへの興味も、
もしかすると、
自分を超えた存在への憧れからきているものかもしれません。
不思議なことに、いわゆる「悪者」は、
子供たちのヒーローになり得ません。

「正義や希望」が常に明確に勝利することを
子供たちは、誰に教わらなくても、希求するのです。
つまり、人間は生まれながらにして
「自分を超えた存在者」「希望を提供し、正義に立つ存在者」
「罪ではなく、清さを大事に教える存在者」を求めているのです。
大人が「現実経験」と「理性、理屈」で
それを拒否することは簡単ですが、
心はそれを求めつづけています。

私たち大人が、もう少し素直になって、
幼いときから満たされずに、未処理になっている「心の土台探し」を
もう少し真剣にできたら良いのだろうなと思います。

漫画の世界に戻っていく必要はありません。
むしろ、
「主を畏れること」「聖なる方を知ること」とは何かを探し求めることを
大切な宿題として考えていければよいのだろうと思います。
子供のころの輝きを取り戻すための大事な作業であり、
心を若く保つ秘訣でもあります。

♪ 倫太郎語録

りんちゃんはねえ,
したくないことをしちゃうんだよ。

なんでかはわからない。


2000年8月11日 (金)

♪ 夏季聖会

明日から2泊3日の予定で夏季聖会に出席する。
今日はその準備で、朝からてんやわんや。
子どもが二人になったので、タオルや衣類がとても多く、
車じゃなければ、絶対に参加できそうにないような大荷物となってしまった。

聖書だけは忘れないようにしなくちゃ。
(去年、パパは忘れた。)
(今年も、忘れそう。)

しかし、今日にいたるまで
子どもたちの健康が守られ、本当に感謝感謝。

車やチャイルドシートの手配など、
多岐にわたって心配りしてくれたG党さんご夫妻にも
本当に感謝感謝。

♪ 夕食の風景

夕食のビーフンを、いつものごとく
のろのろと1本ずつ指でつまんで口に運び、
しまいには、ぽっちり残ったお皿を前に

「パパたべさせて~」

などと、だだをこねている倫太郎。
結局、

「ビーフンも食べて、ケーキも食べるか、
 ビーフンもケーキも食べないか、どっちがいい?」

と聞かれて、

「・・・たべない」

と答え、そのままのろのろとお風呂に入ってしまった。

しばらくして、お皿を洗いながらふと見ると、
倫太郎が去った後の椅子に、
いつのまにか恵嗣郎が自分でのぼっていってきちんと座り、
しかも、見よう見まねで上手にフォークを使いながら、
お皿の上の残りを黙ってぱくついていた。
まだ、歯もあんまり生えてないのに、
肉でもネギでもピーマンでも、なんでもこいといった表情である。

あまりの好対照ぶりに、
パパと眺めながら、思わず笑ってしまう。


2000年8月16日 (水)

♪ 今日食べたもの

・朝

ロールパン
茹で卵
コーヒー牛乳
苺ヨーグルト

・昼

ご飯
モロヘイヤとおかかのあえもの
かぼちゃの煮物
あじの干物
タケノコと椎茸入りのシュウマイ

・おやつ

寒天にきな粉と黒蜜をかけたもの

・夜

ご飯
焼き肉(ピーマン,タマネギ,茄子)
鶏のつくね
アボカド
かぼちゃの煮物

・夜食

きび団子
ロールパン
メロン

♪ メーリングリストから

箴言16からの抜粋です。

16:24 親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。
16:28 暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。

***************************************************

「あの人は私にちっとも親切な言葉をかけてくれない。」
とこぼしたことはありませんか?
実は、それは、
相手もあなたに対して感じていることかもしれないということに
気がついたことはありますか?

私たちは、人にして欲しいことをたくさん持っています。
人への要求は「ただこれだけ」と言いながらも
案外多くのことが心にあるのです。

キリストは、すさまじいことを語りました。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
黄金律と言われている言葉です。

人に求めてがっかりしたり、
結局、相手をぼろくそに言う前に
自分のほうから親切な言葉を語り、
優しい、穏やかな言葉を見つけてそれを使うことが大事なのです。

ちょっとした心遣いがものを言うのかもしれません。

魂に甘く、骨を癒すほどの大きな効果をもたらすものとして
「親切な言葉」が紹介されているのですが、
人は本当に「受け入れられたい」という願いを常に持っているので
あなたのほほえみやあなたからの「親切なことば」は
確かに癒しをもたらすものとなるのです。

でも、親切な言葉って、
他人には話しやすく、身内の者には案外話しにくいものですね。
でも、骨を癒すほどの効果があるのなら、
ちょっと本気で考え、
そういう類の言葉を話し出してみることはすばらしいことです。
ちょっとした勇気と継続の心が必要ですけど。

祝福を祈ります。


2000年8月21日 (月)

♪ S先生へのメール

のこちゃんです。

先生のメッセージに
いつもいつも深く教えられています。
自分のために、こんなふうに時間を割いてくださる方があることを
お世辞ではなく、ほんとうに神様に感謝する毎日です。

とくにここ最近のメッセージは、
私にとって、大変貴重でタイムリーなものでした。
自分の汚さを繰り返し繰り返し見せられ、本当に悶々として

「子育てする資格なんてないよ」
「もうこれで、今まですべてが水の泡だね」

とサタンの告発する声のこだまする中で祈っていましたので、
ああ、これは神様からの助けだ、答えだと思い
はっとさせられていました。

また、今日、

「神がきよめたものをきよくないといってはならない」

というみことばとともに、礼拝の中ではっきりと 「今このとき」の私に対する召命(それがどういうものかは知らないけれど)
を感じ取ることができました。

神様に このままの私を捧げきると決めたとき、
罪の汚れそのものであるような私が
その瞬間から聖い神様のものとなり、

「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない。
 サタンよ、退け!」

とみことばによって宣言できるようになること、
そしてそのみことばの剣によって完全な神の勝利がもたらされ、
とがめは消え去り、神様の臨在に深くとりかこまれて
ほんとうの平安を得られるようになること・・・

そういうことを、祈っていたら体験できました。

いつものように、自分から
「捧げます」と言って御前に出ていったのではなく、
神様の方から
「ここにおいで。もう、ほかに道がないでしょ」と
通りの真ん中で手を広げられた感じでした。

神様があまりに近くにおられるような気がして、
その距離感が嬉しくもあり、こわくもありました。
(しあわせすぎてこわいっていうのにも似ています)
でも、本当にもうこれしかないんだって判って
すっきりした気もします。

実は、講壇の前まででていったものの、

「神様、私はこのとおり罪深いし、人嫌いだし、話しベタだし、
 あっそういえばもっともっと子どもだって産みたいと思ってるし、
 まあ、期待にこたえたいのは山々ですけど
 どうみても役不足ですよ・・・」

「あっそれに、まさかダーリンを差し置いて
 私だけに召命が来るってことはないでしょう?
 そんなの変ですもんねー?」

と祈りながら逡巡し、招きに抵抗していたら、
その瞬間、後ろの席にいたはずの主人が
ひょこひょこと私の目の前に出てきて
「献身を決意する人の列」に並んで祈りはじめたので
ぎょっとしました。

どうぞ、ときどき、私たちのために
祈っていただければ幸いです。

感謝の表明のつもりが
お願いメールみたいになってしまいました。

朝晩はすっかり秋めいた空気になってきました。
お忙しいと思いますが、
お体には気をつけてお過ごしください。

♪ S先生からのメール

とても大事なものを発見できてよかったですね。
主に捧げるという時に、
自分の能力や、意欲を見て、よし、やったろ!というのは、
あまりいいことではありませんよね。
むしろ、だめな私だけれど、十字架の恵みの故に、
もし、使える部分があるのなら、ぜひどうぞっていう感じの方が
大事だなあと思います。

そして、もっとうれしいのは、
ダーリンと一緒にそういう意識が与えられたことだと思います。
やっぱり、奥さんだけの突っ走りっていいことじゃないように思います。
はい。

とにかく、主の取り扱いの中に置かれているってすばらしいことです。
祝福を祈ります。心から祈ります。


2000年8月26日 (土)

♪ メーリングリストから

マルコ1章17節
「私についてきなさい、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」
前回は前半部分の「わたしについてきなさい」という所を学びましたが、
今朝はその後半部分を一緒に学びたいと思います。

「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」

彼ら、シモンやアンデレの職業、それは漁師ですよね?
そんな彼らに向かって
「人間をとる漁師にしてあげよう!」って言われるイエス様は
ほんとにユニークですね。
何だか海辺にふさわしいユーモアのある言い方ですね。
実は「人間をとる漁師」っていうのは、
人々の魂を捕らえて救いに入れる働きをする人にしてあげよう、
っていう事です。
別な言い方をすれば、
「キリストによる救いの道を人々に知らせ、
 人々をその救いに導く伝道者にしてあげよう」
って事でしょうね。
シモンもアンデレも、弟子としての招きですから、
最高にうれしかったでしょうね。

でも今日のこの み言葉は、
イエス様を信じるすべての人に、
人間をとる伝道者になりなさいって言っているのでしょうか?

すべての人に、
牧師になれ!伝道者になれ!献身して神学校へ行け!っていう
命令なのでしょうか?
答えはノーです。

すべての人に牧師や伝道師になれとは語ってはいませんが、
すべての人に伝道する人にしてあげようと語っているのだと思います。
伝道とは何でしょうか?
伝道とは「道を伝える」と書きますが、
今私が感じている伝道、それは
自分の回りにいる人との、
イエス様の助けによる関わりっていう気がしています。

そんな訳で、今日のこのみ言葉
「人間をとる漁師にしてあげよう。」 っていう言葉が用いられたことに、何だかすごく心がひかれるのです。

それは、イエス様がシモンやアンデレをごらんになり、
今まで彼らが経験してきたこの職業を
そのままあてはめておられるという所です。

イエス様を信じて新しくなった自分。
イエス様によって変わった自分。
過去は捨て、前に向かって前進しようとする自分。
でも、イエス様は変わらず、
「あなたをそのまま漁師としてごらんになっている」という点に
とっても興味深いものを感じるのです。

よく、
「イエス様を信じたので、もう世俗的な音楽は捨てました!」
っていう人がいます。
私なんか、「何で???」って疑問になっちゃうんですけど。
きっぱり辞めて、まったく新世界に生きるんだ!っていう生き方。
まあ、それはそれですばらしいのかも知れません。

だったら、イエス様も
はっきりシモンやアンデレに対して、
「人々を救いに導く宗教家にしてあげよう!」
これでも良かったんじゃないですかね?
「漁師なんかきっぱり辞めて、
 あなたをキリストと同じ聖い務めをさせるために
 最高の伝道者にしてあげよう」
って言っても良かったかもしれません。

しかしイエス様は
「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」 と言われたのです。

よ~く考えて見て下さい、
シモンもアンデレもずっと漁師だったんですよ、
その人に、あえて「漁師にしてあげよう」って言われたイエス様は、
きっとね、
彼らの過ごして来た漁師としての経験や体験、
過去の様々な出来事、
また彼らの持っている漁師としての感・才能・能力、
それら一切を神様の働きのために用いるよ!っていう意味のように感じます。

確かに過去は清算する必要もあるでしょう。
しかしその過去さえも主の手の中の出来事だったのです。

「昨日も今日もそして明日も変わることのない神様」
そのイエス様が、
私の今までの人生の経験をすべて捨てなければとは、言わないと思うのです。
捨てる事よりむしろ、その過去を用いて下さるのだと思うのです。
それはまさに過去の経験が主の手によって握られるということです。
あなたの過去を生かし、
同じ職業でありながら今までとは違った感性を与えられ、
そのあなたが置かれた場所での働きを
より充実させて下さるということだと思います。

私には何も能力はない!過去が悪すぎるってよく言う人がいます。
本当にそうでしょうか?

新学期になると、必ず学校からの個人調査表というのが来ます。
その欄に決まって、子供の長所・短所を書く欄があります。
長所、優しい所とか、短所、気が短いとか書くんでしょうね。

僕はその欄に記入した事がありません。
なぜなら、長所は短所になり得るし、短所は長所になり得るからです。
書く事によって先入観が入るし、長所も短所も
関わる人が判断する事だからです。

「自分はだめだ!」
シモンもアンデレも、
「俺たちはしがない漁師だ!今日もちっとも捕れない!
 何回も網を投げたのに・・ただ網が破れるだけ!」
岸にもどって網の修理。ああ毎日同じ事のくり返し。
「でも俺には漁師しかできないんだよ!・・・」

イエス様はそんな中に言葉を下さるのです!
「人間をとる漁師にしてあげよう」と。

ロスに行って英語ができず、わかってはいましたが、ショックでした。
でも成田に着くと、言葉がわかるんです。ほっとするんです。
何を見ても、聞いても理解できるのです。それは自分が日本人だからです。
日本人の心を持ち、日本人の悩みや悲しみが感覚的にわかるのです。
何だかイエス様から「人間をとる日本人にしてあげよう」って
言われているようです。

僕はずっと長い間、音楽をやって来ました。
イエス様を信じる前から音楽が好きでした。
その音楽を持ってそれを職業としてきた人生ですが、
そんな僕にイエス様が、
「あなたを人間をとる歌い手にしてあげよう」
って言われてるようにもこの頃感じます。

同じように、今日ここに集った一人ひとりに
イエス様は先生に対しては、「あなたを人間をとる先生にしてあげよう!」
ピアニストには、「人間をとるピアニストにしてあげよう!」
主婦には、「人間をとる主婦にしてあげよう!」
学生には、「人間をとる学生にしてあげよう!」
と言われているように思います。

あなたの過ごして来た日々は、決して無駄ではないのです。
あなたの辛い経験も、決して無意味ではないのです。
私たちの性格は一日でできあがったものではありません。
あなたの笑顔もそうです。今まで生きてきた事の証です。
そしてイエス様はあなたの経験してきた悲しみも喜びも、
みんな用いてくださるのです。
主の手に握られているから、どんな過去も無駄ではないのです。
それは、あなたが神様と人々に愛されるために生まれたからです。

人間をとる漁師。
もちろんこれは、人々の魂を救いに導くという事ですが、
自分にはそんな大それた事はできない!救いに導くなんてできない!
って思うかもしれません。

でも人間をとるというのは、
イエス様の心を持ってその人と関われるようになるってことです。
イエス様の愛を共に分かち合えるようになれること。
あなたの回りの人と一緒に仲間になるってことです。
一緒に礼拝できる事を喜び合うという関わりを持てるようにして下さる、
そんな繋がりができるようになるという事だと思います。

海にちょっと行ったら、大きな魚の魚拓を飾ってある店がありましたが、
「俺の捕った魚だ!すっごいだろう!」って感じですよね。
確かにすごいですよ。
またある人は、捕った魚を焼いて美味しそうに食べてます。
確かに塩焼きはうまいです!

しかし、獲る(とる)という世界は、
へたをすると勘違いをしやすいような気がします。

人間をとる?
俺はこんなにも救ったぜ!って誇るんでしょうか。
俺がお前を救ってやったんだ!とか、
お前は俺の網に入ったんだからな!とか、
そんな思いで関わるとしたら、悲しい限りです。

人間をとる漁師、それは
イエス様の助けによって、
私たちの人格も人生も過去も持っているものすべて用いて、
人と関わる事のすばらしさ、
隣りの人と一緒に人生の喜びも悲しみも分かち合う事ができるような
関わりを共に育てていく事なのです。
それが漁師の務めです。

人間が人間をとる。
そこによい関係が生まれないとしたら、まさに悲惨です。

生意気にならず、
あなたと一緒に礼拝できるってうれしいです!
あなたと一緒にイエス様を信じながら、人生を歩めて何かうれしいです!
そんな心を育てつつ、与えられた場所で立場で、
人間をとるという事をイエス様はさせてくださるのです。

あなたは自分をどう見ていますか?
欠点が多いなあ?
こんな事が俺はできて凄いぞ!

どうですか?
イエス様はそんなあなたに対して
「あなたを人間をとる漁師、主婦、学生、ピアニスト、ビジネスマン、
 社長・・・にしてあげよう」と言われるのです。

過去がどんなであっても、能力があってもなくても、
あなたがそこにいてくれるだけで、ほっとしますって言われるような
イエス様の愛の温もりと平和を、
強い言葉や態度でなく、自然な形で表し、
キリストのよい証人となれるようにして下さるのです。

あなたはイエス様の言葉にどう応えますか?
「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」

お祈りします。


2000年8月27日 (日)

♪

昨夜、ある事柄に対して

「みことばの剣を与えてください」

と祈っていたら
嵐の湖の上をペテロが主のところまで歩く・・・という
あの有名な聖書個所から

「恐れることはない、わたしだ」

というみことばだけが与えられて、
そのあまりの短さに

「はて、なんのことだろう」

と思っていた。

そしたら、今朝の日曜礼拝でのメッセージで
この個所が取り上げられていた。
びっくりして、内容がちっとも頭に入らなかった。

結局、神様の言いたいことって
なんだったんだろう。(←全然わかってない。)


2000年8月30日 (水)

♪ プール

月曜日から、3日連続でプール。
すっかり日に焼けてしまった。
梅雨のころから、公園に出かけるたびに、
帽子をかぶったり、肩まで来る長さの手袋をはめたりして
必死にサンブロックしていたのに。

日向できらきらしてる水を見ると、
無性に血が騒いで、
もう美肌なんかどうでもよくなっちゃうんだよなあ。


2000年8月31日 (木)

♪ 語られたことメモ

あなたは、
「なりたい自分になる」ということに
とらわれすぎている。

罪は、悔い改めていやされる必要があるが、
気質は、必要があって、そのように造られたものだ。

人間の目には、
長所にみえるところも、
短所にみえるところもあるだろうが、
それらはすべて
あなたの賜物や召命と深く関わっている。

私がよしとしたのだから、
そのまま受けいれなさい。


以上、13日分です。
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のこちゃん