おはようございます。
箴言(しんげん)とは旧約聖書の中にある格言集ですが、
「箴言」の「箴」という字は
昔の中国の鍼灸で利用した竹の鍼という意味があるといわれています。
箴言とは、いわば、「癒す言葉」という意味があるのです。
箴言は31章ですので、1日1章ずつ読めば、1ヶ月で終わります。
それを繰り返すことで、きっと
人生の「道理」について教えられることがあると思います。
今日は1日ですので箴言1章からの抜粋です。
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1:20 知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。
1:21 雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。
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私たちは「知恵を求めて」本に向かい、あるいは学校に行き、師を求めます。
そういう感覚をどこかで植え付けられてきました。
今朝の箴言によると
「知恵は巷(ちまた)に呼ばわり、広場に声をあげ
雑踏の街角で呼びかけ、通路で語りかける」とあります。
寺山修司は「書を捨て街に出よう」と書き、
佐野元春は「街角から街角に神がいる」と歌っていますが、
街の雑踏の中で、「知恵」に出会えるというのは大事なことです。
箴言で教える「知恵」というのは
「神の知恵」であり「キリストの知恵」であり
「救いを提示する真理そのもの」なのですが、
そういうものが私たちの日常的な生活の場に
届けられているのだということになります。
神様からの愛と警告、赦しと真理は、
私たちの生活の場の中ではっきりと提示されているのであって、
何か特別な宗教体験や神秘体験がなければ
神様の知恵や救いにあずかれないというのは、
聖書の教えとは違います。
聖書の神さまは私たちの所に「走りよる神」であり、
私たちを「巷に出てきて探し出してくださる神」なのです。
あなたの「居るところに」来て下さる神様なのです。
問題は、
「歓迎しているかどうか」「聞こうとしているかどうか」
なのかもしれません。
恵嗣郎が、ベビーカーから妙に身を乗り出しているな・・・と
思ったら、地面にうつっている自分の影にむかって、
嬉々としてバイバイしているところだった。
自分がやめない限り、いつまででも根気よく
相手が手を振ってくれるので、
とても楽しい気分になれるらしい。
「ばいば」は バイバイのこと。
「ん、ま~」は おっぱいのこと。
「ば~ば」は パパのこと。
「ま~ま」は ママのこと。
そのほかにも、「りんちゃ」「だ~め」とか
意味のある言葉らしきものをいろいろしゃべる。
「ボール、ぽん、してごらん」とか、
「おもちゃ、箱の中に、ぽいぽいね」とか話し掛けると、
ちゃんと言われた通りにやってみせるところをみると、
こっちの話している内容も、
けっこう理解しているみたいな感じである。
恵嗣郎の反応の中でいちばん面白くて可愛いと思うのは、
おなかがすいているときの態度。
鼻声で甘えながら、私にまとわりついて離れないので
「おっぱいほしいの?」
とたずねてやると、
おっぱいという単語のところで
「うへへへへへ、うへへへへへ(そのとおり!)」
と、いかにも嬉しそうに笑う。
しかも、笑いながら さかんに手をぱちぱち。
このぱちぱちは、ちょうだいちょうだいの意味らしい。
この仕種が見たくて、毎回の授乳のたびに
「おっぱいほしいの?」
と ついついたずねてしまう。
うへへへへへ、うへへへへへ、ぱちぱちぱちぱち。
お約束なんだけど、何度見ても和むなあ~。
お産の痛みって、どんな感じなの、とよく聞かれるけど
表現できないよね。それに、もう忘れてるし。
というような話を、今日、教会でしていたので
私もそこに混じって
「うん、表現できないよね。
あえて言えば、臨死体験って感じ?」
といったら、青年会の姉妹が
身を二つに折って無言で笑いこけていた。
なにがそんなにおかしかったんだろうか。
ちみも産んだらわかると思うんだがな~。
友達との関係の中で、あることが気にかかっていて、
ここしばらくずっと
「私はどうしたらいいんだろう」
と一人で祈ったり考えたりしていたのだが、
こないだ、神様がふと
「友達でいつづける、ということ」
とだけ告げて、
そのまま行ってしまわれたような気がした。
その言葉で100%納得できたわけではないけれど、でも、
「ふーーん、そうかあ、そうなのかあ」
という感じの余韻が自分の中に残っていた。
そんな折、実家で暇つぶしに朝日新聞を読んでいたら、
おすぎとピーコのどちらかが執筆している
ティーン向けの人生相談コーナーに、
なるほどと思わせる記述があるのを目にした。
「あなたはねえ、
(親友っていうのは、自分のことをさらけ出せる相手だ)って
思ってるみたいだけど、それはちょっと違うんじゃない?
親友っていうのは、
(この人のためだったら、何でもしてあげたいなあ)って
自分が思える相手のことよ」
原文とはニュアンスが違ってると思うけど、
大筋としてこんなことが書かれていて、
それで、のこちゃんは はっと気がついたのだった。
ああ、それなら私も親友になれるんだなあ・・・
なんだかとっても嬉しかった。
① 自分のための時間を取っておいてください
② 避けられない障害は、素直に受け入れてください
③ 寝る前に、大問題については話さないでください
④ 予定表を作ってみてください~
⑤ 神の助けを求めてください
箴言5からの抜粋です。
5:9 あなたの栄えを他人に/長寿を残酷なものに渡してはならない。
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あなたの「栄え」と訳されている言葉は
別の訳では「尊厳」となっています。
尊厳が他人に渡されるというのは
「知ること」「決める権利」「自由」が他者によって否定され、
あなたに真実が知らされず、決定権が奪い取られ、
自由に決めることを許されず、
他者が決めた枠の中でのみ生きることが許されるという
状況のことでしょう。
尊厳の基本は
「真実を知ること」「自己決定できる状況が許されること」
そして「決定に際して自由が確保されていること」の
3点だと言われています。
それらが守られる家庭、社会でないと、
何とも不自由な世界、本当のことを知ることができない、
何かに縛られた社会になってしまいます。
尊厳をもって生きることは、
主体的に生きるという姿勢と重なっています。
でも、ある高齢者の方々は、
不自由で希望の持てない状況にすでに置かれています。
ある意味で、長寿が残酷としか感じられない時代がすでに来ています。
高齢者の存在がうとまれる社会には
尊厳が大切にされる雰囲気はありません。
長寿が、残酷な仕打ちを受けるときとは、
社会からの孤立感と、
まるで動物園の檻(おり)の中におかれているような、
まったく自由のない、遠慮だらけの生活に追い込まれてしまった時でしょう。
尊厳への欲求を「わがまま」と片付けられてしまう時です。
高齢者を自負している方々は、
もう少し、わがままを言ったほうが元気になるかもしれませんよ。
駄々をこねるのではなく、尊厳への希求です。
(この辺のバランスが大変難しい。)
若いと自負している方々は、
もっとお互いの尊厳を大事にする努力が必要かもしれません。
箴言4からの抜粋です。
4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
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私たちが守るべきものはたくさんあります。
自分の健康、自分の立場、自分の家庭、自分の持ち物などなど、
いくらでもあげることができます。
そして私たちは知らず知らずのうちに、
守るべきものの多さと、その責任の重さに圧倒されてしまうことがあります。
「大人になりたくない」症候群はそんなところに潜んでいます。
箴言ははっきり、私たちが何を最優先すべきなのかを教えています。
それは気持ちが良いほど単純明快な言葉で教えられています。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」
「心を守る」というのはどういうことなのでしょう。
どういう風にすればよいのでしょう。
一般的には、身体だけでなく、心が死なないように、
栄養を補給し、その内側の汚れを清め、
心の内側に希望や感謝や愛があふれるようにすることです。
内面的ないのちの補給です。
希望を維持し、愛を育て、
自分自身をさわやかに保つことが求められているのです。
この作業は、人間各自に与えられた大きな責任です。
あなたの心が元気なら、
その元気はあなたの全身からみなぎってくるでしょう。
あなたの心が清ければ、
あなたの存在から清い雰囲気がかもし出されるでしょう。
あなたの心に感謝や希望や愛があるなら、それらはきっと
あなたの生活の中に知らず知らずのうち輝き、あふれ出てくるでしょう。
心が元気なら生きる勇気が湧いてくるのです。
それではどういう風にすればよいのでしょう。
読書や思索は心を豊かにしますし、音楽鑑賞なども心を豊かにしてくれます。
しかし、心を清くはしてくれません。
愛を感じることがあっても、なかなか愛の人にはなれません。
聖書は、明確に
イエス・キリストとのかかわりの中でこそ、
私たちの心が取り扱われ、心が一新され、
その疲れが癒されることを教えています。
イエスキリストの十字架の出来事は、
私たちの心を生かし、清め、希望を与えるためだったと聖書は教えています。
キリストの言葉とキリストの出来事に心を向けて見ることが、
「心を守る」作業の最大の一歩なのかもしれません。
各人に提示されている夏休みの宿題。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。」
ところで、あなたは、どういうふうに心を守るつもりですか?
・朝
トースト2枚(マーマレード付き)
コーヒー牛乳
トマトと焼き豚
ニンジンジュース
・昼
ひじきと炒り卵の混ぜご飯
モロヘイヤと豆腐とニンジンの味噌汁
昨夜の残りのほうれんそう餃子
シューマイ
ハッシュドポテト
・夜
ハヤシライス
レタスとトマトとアスパラと焼き豚のサラダ
ジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉のスープ
スーパーミッション2000の帰りに、恵比寿の三越で
「捨てる技術」という本を買う。
見ないで捨てる。
読まないで捨てる。
「しまった!」を恐れずに捨てる。・・・
なるほどなるほど。
ふつうは、高い家賃払って狭い家に住んでるんだもん、
物が多いのはかえって不経済で不便だよなあ。
最近、祈るたびに神様の応答を感じる。
ちょっと前までは、
そういう生き方って、自分の中では憧れだった。
クリスチャンとして、とってもかっこいいと思っていた。
たしかに、祈るたびに
神様が答えてくださる人生というのは、
とても幸いだと思う。
が、祈っている私自身は
ちっともかっこよくないということが判った。
身にしみて判ってきた。
かっこよくないどころか、
もうどうしようもない だめだめちゃんである。
ホントに生きてていいんだろうか、と
ときどき自問自答してしまうくらいの
救いようの無さである。
(救われてるんだけども。)
できない自分。
そうでありたいけれど、
そうなれない自分に葛藤している。
でも、そこから目を背けてはいけない。と思う。
いや、思うんじゃなくて、昨日ダーリンが
目を背けたらいけないんだよ、と教えてくれたんで
あ、そうなんだ~、と自分も理解したのだ。
「自分の罪深さ」と「神様の赦し」
その両方が、常に視野に入っている必要があるんだよ。・・・
(信仰によって私は許します!) と言って、
すっかり許したつもりになって、
本当は許せていない自分の罪深さを見つめずにいるのは
クリスチャンじゃないんだよ。・・・
言い方は違ったけど、
そういうふうに教えてもらったんだっけ。
大事なことだったんだなあ。
今までの歩みは
なんだったんだろうなあ。
さて・・・
こう書いてしまうと
なんだか嘘くさいが、
さっき祈っていたら、神様が
「私になにをしてほしいのか?」
と言われたので
「あますところなく打ち砕かれることです」
「私の肉を燃やしつくされることです」
と答えたのだが、そう言いながら、
これと同様の台詞が出てくる聖書個所を思い出して
しみじみと泣いてしまった。
なぜなら、
この言葉をかけられた生まれつきの盲人と、自分とは
まったく同じなんだなあ、という気がしたから。
そして、そういうみじめな自分に
親しく近づいてきてくださる神様を、
本当に慕わしく感じたからだった。
ほかにもいろいろ懇願したんだけど、
まあ、今の私の祈りの焦点は「自分の罪深さ」にあるので、
上記のような気持ちが第一希望というか、
願いの9割を占めていた、と思う。
神様がこの祈りをたしかに聞いてくださった、という
すっきりしたような、がらーーーんとしたような気分で
今日記を書いている。
-主よ。
-わがたましいは、
-あなたを求めて絶叫しています。
箴言9からの抜粋です。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。
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今朝、選んだ言葉は、箴言における「主題」の言葉です。
別の章にも何回かに出てきています。
畏れるというのは「怖がる」というのと違って
「畏敬の念を持つ」「礼拝の心を向ける」という意味があります。
人間に生来与えられている
「宗教心」と結びついているものとも言われています。
人間として成長する過程の中で、
まず、人のものと自分のものの区別がつけられることが
大人への第一歩であり、
やがて「自分を超えた存在」への憧れや、思いを持つのは
極めて当然と考えられます。
子供たちの、
「ウルトラマン」や「ポケットモンスター」などへの興味も、
もしかすると、
自分を超えた存在への憧れからきているものかもしれません。
不思議なことに、いわゆる「悪者」は、
子供たちのヒーローになり得ません。
「正義や希望」が常に明確に勝利することを
子供たちは、誰に教わらなくても、希求するのです。
つまり、人間は生まれながらにして
「自分を超えた存在者」「希望を提供し、正義に立つ存在者」
「罪ではなく、清さを大事に教える存在者」を求めているのです。
大人が「現実経験」と「理性、理屈」で
それを拒否することは簡単ですが、
心はそれを求めつづけています。
私たち大人が、もう少し素直になって、
幼いときから満たされずに、未処理になっている「心の土台探し」を
もう少し真剣にできたら良いのだろうなと思います。
漫画の世界に戻っていく必要はありません。
むしろ、
「主を畏れること」「聖なる方を知ること」とは何かを探し求めることを
大切な宿題として考えていければよいのだろうと思います。
子供のころの輝きを取り戻すための大事な作業であり、
心を若く保つ秘訣でもあります。
りんちゃんはねえ,
したくないことをしちゃうんだよ。
なんでかはわからない。
以上、6日分です。
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