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ま日記

─── 2000年08月下旬 ───
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2000年8月21日 (月)

♪ S先生へのメール

のこちゃんです。

先生のメッセージに
いつもいつも深く教えられています。
自分のために、こんなふうに時間を割いてくださる方があることを
お世辞ではなく、ほんとうに神様に感謝する毎日です。

とくにここ最近のメッセージは、
私にとって、大変貴重でタイムリーなものでした。
自分の汚さを繰り返し繰り返し見せられ、本当に悶々として

「子育てする資格なんてないよ」
「もうこれで、今まですべてが水の泡だね」

とサタンの告発する声のこだまする中で祈っていましたので、
ああ、これは神様からの助けだ、答えだと思い
はっとさせられていました。

また、今日、

「神がきよめたものをきよくないといってはならない」

というみことばとともに、礼拝の中ではっきりと 「今このとき」の私に対する召命(それがどういうものかは知らないけれど)
を感じ取ることができました。

神様に このままの私を捧げきると決めたとき、
罪の汚れそのものであるような私が
その瞬間から聖い神様のものとなり、

「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない。
 サタンよ、退け!」

とみことばによって宣言できるようになること、
そしてそのみことばの剣によって完全な神の勝利がもたらされ、
とがめは消え去り、神様の臨在に深くとりかこまれて
ほんとうの平安を得られるようになること・・・

そういうことを、祈っていたら体験できました。

いつものように、自分から
「捧げます」と言って御前に出ていったのではなく、
神様の方から
「ここにおいで。もう、ほかに道がないでしょ」と
通りの真ん中で手を広げられた感じでした。

神様があまりに近くにおられるような気がして、
その距離感が嬉しくもあり、こわくもありました。
(しあわせすぎてこわいっていうのにも似ています)
でも、本当にもうこれしかないんだって判って
すっきりした気もします。

実は、講壇の前まででていったものの、

「神様、私はこのとおり罪深いし、人嫌いだし、話しベタだし、
 あっそういえばもっともっと子どもだって産みたいと思ってるし、
 まあ、期待にこたえたいのは山々ですけど
 どうみても役不足ですよ・・・」

「あっそれに、まさかダーリンを差し置いて
 私だけに召命が来るってことはないでしょう?
 そんなの変ですもんねー?」

と祈りながら逡巡し、招きに抵抗していたら、
その瞬間、後ろの席にいたはずの主人が
ひょこひょこと私の目の前に出てきて
「献身を決意する人の列」に並んで祈りはじめたので
ぎょっとしました。

どうぞ、ときどき、私たちのために
祈っていただければ幸いです。

感謝の表明のつもりが
お願いメールみたいになってしまいました。

朝晩はすっかり秋めいた空気になってきました。
お忙しいと思いますが、
お体には気をつけてお過ごしください。

♪ S先生からのメール

とても大事なものを発見できてよかったですね。
主に捧げるという時に、
自分の能力や、意欲を見て、よし、やったろ!というのは、
あまりいいことではありませんよね。
むしろ、だめな私だけれど、十字架の恵みの故に、
もし、使える部分があるのなら、ぜひどうぞっていう感じの方が
大事だなあと思います。

そして、もっとうれしいのは、
ダーリンと一緒にそういう意識が与えられたことだと思います。
やっぱり、奥さんだけの突っ走りっていいことじゃないように思います。
はい。

とにかく、主の取り扱いの中に置かれているってすばらしいことです。
祝福を祈ります。心から祈ります。


2000年8月26日 (土)

♪ メーリングリストから

マルコ1章17節
「私についてきなさい、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」
前回は前半部分の「わたしについてきなさい」という所を学びましたが、
今朝はその後半部分を一緒に学びたいと思います。

「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」

彼ら、シモンやアンデレの職業、それは漁師ですよね?
そんな彼らに向かって
「人間をとる漁師にしてあげよう!」って言われるイエス様は
ほんとにユニークですね。
何だか海辺にふさわしいユーモアのある言い方ですね。
実は「人間をとる漁師」っていうのは、
人々の魂を捕らえて救いに入れる働きをする人にしてあげよう、
っていう事です。
別な言い方をすれば、
「キリストによる救いの道を人々に知らせ、
 人々をその救いに導く伝道者にしてあげよう」
って事でしょうね。
シモンもアンデレも、弟子としての招きですから、
最高にうれしかったでしょうね。

でも今日のこの み言葉は、
イエス様を信じるすべての人に、
人間をとる伝道者になりなさいって言っているのでしょうか?

すべての人に、
牧師になれ!伝道者になれ!献身して神学校へ行け!っていう
命令なのでしょうか?
答えはノーです。

すべての人に牧師や伝道師になれとは語ってはいませんが、
すべての人に伝道する人にしてあげようと語っているのだと思います。
伝道とは何でしょうか?
伝道とは「道を伝える」と書きますが、
今私が感じている伝道、それは
自分の回りにいる人との、
イエス様の助けによる関わりっていう気がしています。

そんな訳で、今日のこのみ言葉
「人間をとる漁師にしてあげよう。」 っていう言葉が用いられたことに、何だかすごく心がひかれるのです。

それは、イエス様がシモンやアンデレをごらんになり、
今まで彼らが経験してきたこの職業を
そのままあてはめておられるという所です。

イエス様を信じて新しくなった自分。
イエス様によって変わった自分。
過去は捨て、前に向かって前進しようとする自分。
でも、イエス様は変わらず、
「あなたをそのまま漁師としてごらんになっている」という点に
とっても興味深いものを感じるのです。

よく、
「イエス様を信じたので、もう世俗的な音楽は捨てました!」
っていう人がいます。
私なんか、「何で???」って疑問になっちゃうんですけど。
きっぱり辞めて、まったく新世界に生きるんだ!っていう生き方。
まあ、それはそれですばらしいのかも知れません。

だったら、イエス様も
はっきりシモンやアンデレに対して、
「人々を救いに導く宗教家にしてあげよう!」
これでも良かったんじゃないですかね?
「漁師なんかきっぱり辞めて、
 あなたをキリストと同じ聖い務めをさせるために
 最高の伝道者にしてあげよう」
って言っても良かったかもしれません。

しかしイエス様は
「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」 と言われたのです。

よ〜く考えて見て下さい、
シモンもアンデレもずっと漁師だったんですよ、
その人に、あえて「漁師にしてあげよう」って言われたイエス様は、
きっとね、
彼らの過ごして来た漁師としての経験や体験、
過去の様々な出来事、
また彼らの持っている漁師としての感・才能・能力、
それら一切を神様の働きのために用いるよ!っていう意味のように感じます。

確かに過去は清算する必要もあるでしょう。
しかしその過去さえも主の手の中の出来事だったのです。

「昨日も今日もそして明日も変わることのない神様」
そのイエス様が、
私の今までの人生の経験をすべて捨てなければとは、言わないと思うのです。
捨てる事よりむしろ、その過去を用いて下さるのだと思うのです。
それはまさに過去の経験が主の手によって握られるということです。
あなたの過去を生かし、
同じ職業でありながら今までとは違った感性を与えられ、
そのあなたが置かれた場所での働きを
より充実させて下さるということだと思います。

私には何も能力はない!過去が悪すぎるってよく言う人がいます。
本当にそうでしょうか?

新学期になると、必ず学校からの個人調査表というのが来ます。
その欄に決まって、子供の長所・短所を書く欄があります。
長所、優しい所とか、短所、気が短いとか書くんでしょうね。

僕はその欄に記入した事がありません。
なぜなら、長所は短所になり得るし、短所は長所になり得るからです。
書く事によって先入観が入るし、長所も短所も
関わる人が判断する事だからです。

「自分はだめだ!」
シモンもアンデレも、
「俺たちはしがない漁師だ!今日もちっとも捕れない!
 何回も網を投げたのに・・ただ網が破れるだけ!」
岸にもどって網の修理。ああ毎日同じ事のくり返し。
「でも俺には漁師しかできないんだよ!・・・」

イエス様はそんな中に言葉を下さるのです!
「人間をとる漁師にしてあげよう」と。

ロスに行って英語ができず、わかってはいましたが、ショックでした。
でも成田に着くと、言葉がわかるんです。ほっとするんです。
何を見ても、聞いても理解できるのです。それは自分が日本人だからです。
日本人の心を持ち、日本人の悩みや悲しみが感覚的にわかるのです。
何だかイエス様から「人間をとる日本人にしてあげよう」って
言われているようです。

僕はずっと長い間、音楽をやって来ました。
イエス様を信じる前から音楽が好きでした。
その音楽を持ってそれを職業としてきた人生ですが、
そんな僕にイエス様が、
「あなたを人間をとる歌い手にしてあげよう」
って言われてるようにもこの頃感じます。

同じように、今日ここに集った一人ひとりに
イエス様は先生に対しては、「あなたを人間をとる先生にしてあげよう!」
ピアニストには、「人間をとるピアニストにしてあげよう!」
主婦には、「人間をとる主婦にしてあげよう!」
学生には、「人間をとる学生にしてあげよう!」
と言われているように思います。

あなたの過ごして来た日々は、決して無駄ではないのです。
あなたの辛い経験も、決して無意味ではないのです。
私たちの性格は一日でできあがったものではありません。
あなたの笑顔もそうです。今まで生きてきた事の証です。
そしてイエス様はあなたの経験してきた悲しみも喜びも、
みんな用いてくださるのです。
主の手に握られているから、どんな過去も無駄ではないのです。
それは、あなたが神様と人々に愛されるために生まれたからです。

人間をとる漁師。
もちろんこれは、人々の魂を救いに導くという事ですが、
自分にはそんな大それた事はできない!救いに導くなんてできない!
って思うかもしれません。

でも人間をとるというのは、
イエス様の心を持ってその人と関われるようになるってことです。
イエス様の愛を共に分かち合えるようになれること。
あなたの回りの人と一緒に仲間になるってことです。
一緒に礼拝できる事を喜び合うという関わりを持てるようにして下さる、
そんな繋がりができるようになるという事だと思います。

海にちょっと行ったら、大きな魚の魚拓を飾ってある店がありましたが、
「俺の捕った魚だ!すっごいだろう!」って感じですよね。
確かにすごいですよ。
またある人は、捕った魚を焼いて美味しそうに食べてます。
確かに塩焼きはうまいです!

しかし、獲る(とる)という世界は、
へたをすると勘違いをしやすいような気がします。

人間をとる?
俺はこんなにも救ったぜ!って誇るんでしょうか。
俺がお前を救ってやったんだ!とか、
お前は俺の網に入ったんだからな!とか、
そんな思いで関わるとしたら、悲しい限りです。

人間をとる漁師、それは
イエス様の助けによって、
私たちの人格も人生も過去も持っているものすべて用いて、
人と関わる事のすばらしさ、
隣りの人と一緒に人生の喜びも悲しみも分かち合う事ができるような
関わりを共に育てていく事なのです。
それが漁師の務めです。

人間が人間をとる。
そこによい関係が生まれないとしたら、まさに悲惨です。

生意気にならず、
あなたと一緒に礼拝できるってうれしいです!
あなたと一緒にイエス様を信じながら、人生を歩めて何かうれしいです!
そんな心を育てつつ、与えられた場所で立場で、
人間をとるという事をイエス様はさせてくださるのです。

あなたは自分をどう見ていますか?
欠点が多いなあ?
こんな事が俺はできて凄いぞ!

どうですか?
イエス様はそんなあなたに対して
「あなたを人間をとる漁師、主婦、学生、ピアニスト、ビジネスマン、
 社長・・・にしてあげよう」と言われるのです。

過去がどんなであっても、能力があってもなくても、
あなたがそこにいてくれるだけで、ほっとしますって言われるような
イエス様の愛の温もりと平和を、
強い言葉や態度でなく、自然な形で表し、
キリストのよい証人となれるようにして下さるのです。

あなたはイエス様の言葉にどう応えますか?
「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」

お祈りします。


2000年8月27日 (日)

♪

昨夜、ある事柄に対して

「みことばの剣を与えてください」

と祈っていたら
嵐の湖の上をペテロが主のところまで歩く・・・という
あの有名な聖書個所から

「恐れることはない、わたしだ」

というみことばだけが与えられて、
そのあまりの短さに

「はて、なんのことだろう」

と思っていた。

そしたら、今朝の日曜礼拝でのメッセージで
この個所が取り上げられていた。
びっくりして、内容がちっとも頭に入らなかった。

結局、神様の言いたいことって
なんだったんだろう。(←全然わかってない。)


2000年8月30日 (水)

♪ プール

月曜日から、3日連続でプール。
すっかり日に焼けてしまった。
梅雨のころから、公園に出かけるたびに、
帽子をかぶったり、肩まで来る長さの手袋をはめたりして
必死にサンブロックしていたのに。

日向できらきらしてる水を見ると、
無性に血が騒いで、
もう美肌なんかどうでもよくなっちゃうんだよなあ。


2000年8月31日 (木)

♪ 語られたことメモ

あなたは、
「なりたい自分になる」ということに
とらわれすぎている。

罪は、悔い改めていやされる必要があるが、
気質は、必要があって、そのように造られたものだ。

人間の目には、
長所にみえるところも、
短所にみえるところもあるだろうが、
それらはすべて
あなたの賜物や召命と深く関わっている。

私がよしとしたのだから、
そのまま受けいれなさい。


以上、5日分です。
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のこちゃん