[TOP] [ふりぽけ日記] [最新版] [一覧]

ま日記

─── 2001年07月 ───
[最新版] [一覧]

2001年7月4日 (水)

♪ 6月の連絡帳

もしかすると、

倫太郎は、幼稚園と家とでは

まったくちがう表情を

みせているのかもしれない。

幼稚園と家と、というより、

子ども同士でいるときと、保護者も混じっているときと、

と場面を分けて考えたほうが適切だろうか。



今まで、倫太郎のことは、

とても繊細なところがある子どもだと思っていた。

それが長所でも短所でもあるんだけど、

人がたくさんいるごみごみした所は大の苦手だし、

自分の世界に浸るのが好きで、

こだわりも強い方かなと思っていた。

だから、



(入園して、みんなと楽しくやって行けるのかな?)

(先生に、細かい所のフォローを頼んだほうがいいかな?)



と内心、やや不安に思っていたし、

帰宅してきた倫太郎に、

誰と、どんなことをして遊んでいるのか尋ねてみても

とくにこの子と、という仲良しはいない様子で



「りんちゃん、だれともあそばなかった」

「りんちゃん、なーんにもしなかった」



などと平然と答えるので



(大丈夫かなあ)



とますます心配を募らせていたのだった。



ところが、

6月の連絡帳に、担任の先生から

こんな↓コメントが載っていて



(ええっ、これ本当にりんちゃんのこと?)



と首をひねってしまったのだった。



********



「とにかく明るいひょうきんりんちゃん、

 お友達をはじから“さん”づけで呼んで笑わせたり、

 お話に夢中になってお弁当が最後になるくらい

 たくさんのお友達に囲まれて・・・人気者です♪



 帰りのバスを待っているときも、

 年中・年長さんのお兄さんお姉さんとも仲良く遊んでいます。

 お友達を作るのが上手なりんちゃん、

 7月も元気い〜っぱい遊んでほしいです。」



********



明るくてひょうきん??

お友達を作るのが上手???



嬉しかったけど、

あまりに信じがたかったので、

同じクラスのママたちにも

どんなことが書いてあったから聞いてみたのだが、

他の子たちの連絡帳には、

いかにもあの子らしいと思わせる内容の

コメントが書かれていたようだった。

ということは、

やっぱり倫太郎のことも

先生は見たままを率直に書いてくださったんだろうと

いう結論になったのだが・・・



他のママたちも

「子どもって分かんないね」

「おとなしそうに見えるのに、意外だね」 

と口をそろえていた。



親のいないところで、

どんなふうに友達と接し、楽しんでいるのか・・・

やっぱり、私の知っている倫太郎とは

少し違う倫太郎がそこにいるのか・・・

サングラスにマスクに帽子という変装で、

私も是非一度、遊んでいる彼の様子を

覗かせてもらいたいものだと思うのだけど、

そんなことしたら、きっとばればれなんだろうなあ。



なんだか、

子どもの心の「聖域」を

神様が垣間見せてくださった気がした。



ところで、この連絡帳のコメントをパパに見せたら



「小学校3年生のころに、

 俺が担任の先生からもらった

 通信簿の書き出しによく似てる」



とかなんとか。

ようするに、これも遺伝というだけかしら。

 


2001年7月14日 (土)

♪ 上出来

鶏のウイングを買ったので、

パイナップルの缶汁と醤油、みりん少々で

煮こんでみた。



うまい。



これをほぐして、明日の朝

野菜&マヨネーズと一緒にパンに挟んだら、

ハワイアンサンドっていう感じだ。

(↑イメージで命名。)



ここ最近、

夏ばてということもあり、

ず〜っと胃腸の調子がすぐれないのだが、

自分が食べられる食べられないに関わらず、

料理だけはせっせこせっせこ励んでいる。



えらい。母の鏡。>自分



♪ ふみひとくんとりりかちゃん

倫太郎と同じクラスのふみひとくんは、

最近、りりかちゃんという女の子に

惚れ込まれている。



幼稚園までお迎えに行っている

ママたちの目撃談によれば、

ふみひとくんが帰りのバスに乗り込むや否や、

ささ〜っとりりかちゃんが後を追い、

隣の席に座るのだそうだ。



恋のきっかけは、

水遊びのときだか着替えのときだか、

ふみひとくんが、りりかちゃんの下着の模様を見て



「かわいいね♪」



と言ったことらしい。



ふみひとくんにしてみれば、

何でもない発言だったのだが、

その一言に

りりかちゃんの女心はくすぐられたようで

以来、ふみひとくんはりりかちゃんの

いちばんのお気に入りになってしまった。



当のふみひとくんもりりかちゃんも

そんなナレソメ? は

忘れてほうけているようなのだが、

たしかにこのふたり、いつも

仲良く並んで座って

帰ってきている。



でも、最近、りりかちゃんは

家でママにこうぼやいているらしい。



「ふみひとくんね、

 りりかがおはなししてると、

 ねちゃうの・・・」



ふみくんは、

時間が来ると

どこでも寝ちゃうからねえ。

♪ 倫太郎とのんちゃん

これまた同じクラスの

のんちゃんの話。



ある日、のんちゃんがおずおずとした様子で、



「ママ、あのねー、

 のんちゃん、あそびたいこがいるの」



とママに打ち明けた。

のんちゃんは、おっとりしていて内気なタイプなので

ママは、



「いいよー、のんちゃんがあそびたいこがいるなら、

  ママがその子のママにお話してあげるよ」



と答えてあげた。



「で、だれ?」



「あのね、・・・りんちゃん」



「なーんだ、りんちゃんなら、

 今日おうちに電話してあげるよ」



ということで、

わざわざ夕方に



「今度うちの子と遊んでね」



と電話をもらったのだが、



のんちゃんママによれば、

幼稚園で、のんちゃんが倫太郎に

「あそぼう」と声をかけると、

倫太郎はいつも、

ケケケケケっと笑いながら逃げていくらしい。



そして、のんちゃんはいつも

倫太郎のその妙な態度に

(どうしてなんだろう・・・)

と、疑問を抱いているらしい。



照れながら走り去っていく倫太郎に、

立ち尽くすのんちゃん。



目に浮かぶ。



目に浮かぶ。




2001年7月15日 (日)

♪ 語られたこと

あなたは、ずっと、

さびしい思いを味わってきました。

言葉では言い表せない、

手ではらわたを絞られるような、

本当の悲哀、本当の孤独を

人生のはじめから味わってきました。

神はそのことを知っておられます。



クリスチャンになるまで、

そのさびしさゆえに、

自分から意図的に罪を犯したりして過ごしてきました。

そして今、そのときのことを思い出して

深く後悔しています。

そのことも知っておられます。



あなたの心の、

自分では気づかないところに

あなたの古い傷は

まだ残っています。

それゆえに、あなたは

自分の存在が他者から必要とされる、

ということは願っていても、

自分が同じように他者の存在を必要とする、

ということは

どうしてもできなくて、

そのような状態になることを避けています。



その人から捨てられることを

恐れているのです。



それゆえに、

子供たちをはじめ、多くの人々もまた、

あなたに接するとき、

物足りない思いや、さびしい思いを

繰り返し味わってきました。



そのことに、

あなたは今、気がつきました。



けれども、

神はあなたを責めません。

なぜなら、あなたが

キリストを信じているからです。

あなたが、それらの罪ゆえに

神から責められることはないのです。



それどころか、

キリストは、よきサマリヤ人として

あなたに現れました。

ひどく傷つけられ、道に倒れて、

絶望と怒りの中、

助けを求めてうめくあなたを

見捨てることができなかったのです。

他の人のように、

黙って通り過ぎることができなかったのです。

キリストはあなたを、

オリブ油とぶどう酒とで丁寧に洗い、介抱し、

信頼できる宿屋へ運びました。

宿屋とは教会のことです。



あなたはまだ少し傷ついていて、

床の中で、

自分の傷がいつまでも癒えないことを

申し訳なく思っていますが、

心配することはありません。

なぜなら、キリストが

あなたの治癒に必要なすべての代価を

支払っているからです。



十字架で、

すでに支払っているからです。


2001年7月19日 (木)

♪ 倫太郎について語られたこと メモ

神様は、倫太郎に

「預言の賜物」をお与えになりました。

また、この賜物を磨くために、

彼の人生の上に「困難」もお与えになるでしょう。



親であるあなたは、彼に

「祈ること」を教えなければなりません。

具体的にどのように教えていったらよいのか

あなた自身が御前にひざまづき、

祈って求めていく必要があります。



神様は、もうひとつ、

「音」に関するすぐれた資質を

彼に授けられました。

倫太郎は、将来、音響の分野で

個性的な、よい働きをするでしょう。

それゆえに、彼は、現在、

「音」に関する人並外れた敏感さを持っていますが、

あなたは、これについて心配してはなりません。

彼は必ず、この資質を通して

用いられることになります。



さらに、神様は、

「言葉」に関する賜物も、

倫太郎にお与えになりました。

彼は、言葉で表現するということが非常に巧みです。

この賜物と、預言の賜物とを組み合わせることによって、

人の心に励ましを与えたり、人の徳を高めたりなど、

さまざまな、素晴らしい働きをすることが

出来るようになります。



これらのことについて、

折に触れて彼に話し、励ましてあげなさい。

これらのことをあなたに示したのは、

彼に、将来と希望を与えるためです。

♪ 祈りの答え

倫太郎が、ゆうべ突然こう言った。



「りんちゃんはね、ママのこと、

 まいにち、ゆるしてるんだよ」



そして、両手を大きく広げ、

そのまま体を直角に曲げて微笑みながら

こうも言った。



「ママのこと、これくらい

 あいしてるんだよ」



********



さっき、なんとなく

そのできごとを思い巡らせていたとき、

ふと、2・3日前に捧げたお祈りのことが、

記憶の中に鮮明によみがえってきた。



知らず知らずのうちに、

自分が倫太郎にさびしい思いを味あわせていたのだ、

ということに気づかされて、

そのさびしさがなぜか私の胸にもしみわたるようで、

今までのすべてが悔やまれて悔やまれて

一晩中泣いていた、

あのときのことを・・・



(神様が私を責めていないことはよくわかった。

 でも、倫太郎に私が与えた傷は

 どうなっちゃうんだろう?)



それだけが気がかりで、悲しくて、

本当に、いつまでも涙が流れて止まらなかった。



でも、神様は、ゆうべ、

倫太郎の口をとおしても

私に赦しを届けてくださったのだと思う。



「りんちゃんはね、ママのこと、

 まいにちゆるしてるんだよ」



「りんちゃんはね、ママのこと、

 これくらいあいしてるんだよ」



神様って、なんと素晴らしい

慰めと配慮に満ちた方なんだろうか!


2001年7月21日 (土)

♪ 炊飯器

ちょっと前のことになるが、

ある日突然、炊飯器が火を吹いたことがあった。



正確に言うと、

スイッチを入れてすぐ、

「バチバチッ」という大きな音がして、

炊飯器のプラグの付け根のビニールが溶け、

そこから線香花火のような火花が出て、

めらめらと小さな火がつきはじめたのだった。



幸い、私がそばにいたので、

大事にいたらなかったのだが、

あれは非常にコワイ体験であった。

出火すると人はパニックになる、というのは本当で

私もしばらく、ちろちろ燃えている炊飯器のコードを見ながら



「あ、どうしよう、どうしよう」



とつぶやきつつ、

その場でくるくるまわっていただけであった。



(しかも、「どうしよう」というのは、

「おかまが壊れたら、晩ご飯できなくなっちゃう、どうしよう」

 という意味なのであった・・・)



いちかばちかで、炊飯器のスイッチを消し、

両手でそーっとコードを引っ張ったら

うまいことコンセントから抜けてくれて、

そのまま火も消えた。



********



その日はお鍋でご飯を炊いたのだが、

はじめちょろちょろなかぱっぱ、の要領で火加減すると

本当に美味しくできることがわかって驚いた。

以来、ずっと炊飯器は買っていない。



ときに失敗もするけれど、

ガスの方が電気よりずっと早く炊けるし、

その失敗のお焦げも香ばしくて、

キャンプに来て自炊しているみたいな趣がある。



やりかたを詳しく書くと、

3合炊く場合



・はじめちょろちょろ(弱火で10分〜13分)

・中ぱっぱ(強火で1分〜2分)

・ふきはじめたら(ふきこぼれそうになったら)

・火を引いて(弱火にする)

・赤子泣くとも蓋とるな(お米の焦げる音が聞えてきたら火を止め、蒸らす)



これでたぶん、誰でも上手に出来ると思う。

興味ある方はお試しあれ。


2001年7月25日 (水)

♪ オリエンテーリング

その昔、

私がまだ教会学校の生徒だったころ、

泊りがけの夏季キャンプで

オリエンテーリングなるものを経験した。



そのとき、



「これにはね、深〜い意味があるんだよ」



と教会学校の先生が言ったのだけど、

深い意味って、何だろう?

子どもたちはみんな、頭の中が疑問符だらけ。



オリエンテーリングというのは、

歳や立場の違う何人かの人間がグループになって、

問題解決をしながら進んでいく遊びである。

大人向けには、ところどころ、

アスレチックを組み合わせたものもあるのだが、



その夏季キャンプの場合、

林の中にある木のいくつかに

なぞなぞに近い内容の「指示文」が貼られているので

まずそれを探し出し、見つけたら

みんなで知恵を絞りあって解読しながら

目的地を目指したのだった。



これは、単純に

子ども同士の親睦をはかる目的で

行われていた遊びだったと思うのだが、

いちばんに到着したら、とか

全問正解だったら、とかいうことで

あとから、さらに

グループ毎のボーナス点が加算され、

思いがけない順位のどんでん返しにわいたり、

ご褒美がもらえて喜んだりしたような

記憶がある。



今日、教会で

友達と話していたら

そのときのことを急に思い出して、



(あ、「深い意味」って

 そういうことだったのか)



と合点がいった。



クリスチャンの人生って、

オリエンテーリングそのものなのだ。



神様が私に指示を出す。

たいていは具体的に次の場所を指示してくださるけれど、

ときには、なぞなぞに近い指示だったりする。

で、



(この方向でいいのかな?)

(この答えであってるかな?)



と思いながら、

とても気持ちのいい自然の中を

私は一生懸命に進んでいく。

すると、遠くの木の幹に、

また、白い紙らしきものが貼ってあるのが見える。



(あれだ!)



胸を弾ませながら、駆け寄って読むと、

紙には、次のヒントが書いてある。

たとえば、

どこそこに、どういう人が立っているから、

その人に「○○○」と言いなさい、

そうすれば、その人が、

次の紙の貼ってある場所を教えてくれます、

などなど。



言われた通りに進んでみると、

そのような人に出会ったので

勇気を奮って「○○○」と話し掛けてみる。

するとそれが合い言葉になり、

今度は、その人の案内で、

ちょっと隠れたわかりにくい場所に

次の紙が貼られているのを見つけることができる。



(やった!)



私より先に進んでいく、他のクリスチャンの姿が、

時折、林の中に見え隠れしている。

それがまた、楽しくて、励まされるようで、

心をかきたてられる。



そしてまた、私も進んでいく。



ゆっくりでも、

無事到着できれば



「おめでとう! 待ってたよ〜」



と、みんなが笑顔で迎えてくれ、

あとで、食卓を囲みながら

いつまでも、あのときこのときの体験談で

盛り上がることの出来るオリエンテーリング。



はじめての地を、そのときどきの

神様からの言葉だけをたよりに歩む・・・

クリスチャンの人生って、本当に、

オリエンテーリングそのものなんだなあ。


2001年7月30日 (月)

♪ 恵み

真剣に祈らざるをえないような

問題や課題があるっていうのは、

ある意味、

本当の恵みかもしれない、と

最近つくづく思っている。



もっとも、

苦しんでいる“その最中”には

とてもそんなふうに感じる余裕など

ないのだけれど・・・



でも、やはり

ある事柄について

悩んで悩んで悩みぬいたために、

そのことについて、

祈って祈って祈り倒すはめになり、

結果、神様から

その問題に対する答えはおろか

将来にわたる希望までも

与えていただくことができた、

ということが

私にもたびたびある。



たとえば、子どものこと。



どんな親にとっても

長子とはそのようなものかもしれないが、

倫太郎も、私にとっては

かなり育てにくさを感じさせる子どもである。



信仰によって

祈りによって

いつかなんとかなるでしょう、

そうです、

心配無用、

信じるものにとっては

すべてが益とされるのです。

アーメン! 



などとは

どうも言えない状況にあった。



親として、

脳みそが擦り切れるまで考えぬき、

また祈りぬいて、

目を見張りながら

かしこくかしこく進んでいく必要性を

いつも感じていた。



でも、そのことについて

安易に人に相談してまわったり、

悩んで試行錯誤している自分への

理解を求めようとする気には

なれなかったし、

もちろん、

この日記で愚痴る気にもなれなかった。



それに、

相談したり愚痴ったりするとしても、

悩みの内容が深刻なわりには

大変微妙で主観的な事柄が多かったので、

相手に伝わるように説明するのも骨が折れ、



結局、そんなこんなで

よく祈っていた。



八方ふさがりで、

とてつもなく孤独で、

涙ばかりが流れる日が続いた。



そのような中、

今年の3月頃、

ひょんなことから

倫太郎の人生に関わると思われる

ある大きな決定を

しなければならなくなった。



右か左か、

どちらに決めるとしても

王道のようなものは見当たらず、

私たち両親が引き受けねばならない責任は

重過ぎるように思われた。



そのことについて

ほとんど

ノイローゼになりかかっていたのだけれど

その件についても、

神様ははじめから

同じ意味のふたつのみことばを

励ましとして与えてくださったほか、



ついに先週、

はっきりとした具体的な方向性をも

示してくださったのだった。



それが、

大幅に割愛しているけれど

「倫太郎について語られたこと」

として

日記に書いた内容だった。



それには、

ただの平信徒である私に対して与えるには

大きすぎるのではないかとも感じられる

個人預言的な事柄も含まれていた。



私は、

のしかかる重圧に喘ぎながら、

ただひたすらに



(私をひとりにしないでください)

(あなたが見るように見る目を与えてください)



とつぶやいたにすぎない。

そして、多くの祈りは、

「祈り」といえるほどの

ものだったとも思えない。



けれども神様は、

ついに

その声に答えてくださり、

あたたかく深い

とつぜんのご臨在とともに

倫太郎をどのようにご覧になっているのか

また、彼のどんな部分について

私たちがどんなふうに受け入れればよいのか

ことこまかに分かち合ってくださり、



言葉では表現できないような

安心感と感激で

私を満たしてくださったのだった。



それは、

前述の「決定」まで

たった2日ほど残された

夜のことだった。



この期におよんでそんな決定を下すのは、

顰蹙だといえるくらい

ぎりぎりだったのだが、

そのことで

他者に迷惑をかけるようなこともなく、

スムーズに事は運び、

平安と確信を持って

よい方に決めることが出来たのだった。



*************



とても御前には

持っていきたくないような、

複雑かつ醜い問題も

自分でも気づかないまま

たくさん抱えている私だけれど、



いつか時が満ちて、

心を強くされ、

そのことについても

少しずつ直面できるようになるとき、



その嫌な事柄を通してこそ、

神様のさまざまなご計画が

手品の種明かしのように

ひも解かれていき、



また、

聖書に書かれている

神様のご性質のすばらしさが

いったいどれほどのものなのか、

その片鱗を

心ゆくまで味わうことが出来るように

なるんだろうな・・・、

と思ったりしている。



これからの人生に、



(もう駄目かもしれない)



と思うことは多々あっても

本当にそのまま

終わってしまうことはないだろう。



なぜなら、

神様がいつもともにいて

私に必ず答えてくださるのだから・・・




以上、7日分です。
[最新版] [一覧] [戻る]
このページはTsDiarySystemを用いて生成されています。

のこちゃん