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ま日記

─── 2001年07月下旬 ───
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2001年7月21日 (土)

♪ 炊飯器

ちょっと前のことになるが、

ある日突然、炊飯器が火を吹いたことがあった。



正確に言うと、

スイッチを入れてすぐ、

「バチバチッ」という大きな音がして、

炊飯器のプラグの付け根のビニールが溶け、

そこから線香花火のような火花が出て、

めらめらと小さな火がつきはじめたのだった。



幸い、私がそばにいたので、

大事にいたらなかったのだが、

あれは非常にコワイ体験であった。

出火すると人はパニックになる、というのは本当で

私もしばらく、ちろちろ燃えている炊飯器のコードを見ながら



「あ、どうしよう、どうしよう」



とつぶやきつつ、

その場でくるくるまわっていただけであった。



(しかも、「どうしよう」というのは、

「おかまが壊れたら、晩ご飯できなくなっちゃう、どうしよう」

 という意味なのであった・・・)



いちかばちかで、炊飯器のスイッチを消し、

両手でそーっとコードを引っ張ったら

うまいことコンセントから抜けてくれて、

そのまま火も消えた。



********



その日はお鍋でご飯を炊いたのだが、

はじめちょろちょろなかぱっぱ、の要領で火加減すると

本当に美味しくできることがわかって驚いた。

以来、ずっと炊飯器は買っていない。



ときに失敗もするけれど、

ガスの方が電気よりずっと早く炊けるし、

その失敗のお焦げも香ばしくて、

キャンプに来て自炊しているみたいな趣がある。



やりかたを詳しく書くと、

3合炊く場合



・はじめちょろちょろ(弱火で10分〜13分)

・中ぱっぱ(強火で1分〜2分)

・ふきはじめたら(ふきこぼれそうになったら)

・火を引いて(弱火にする)

・赤子泣くとも蓋とるな(お米の焦げる音が聞えてきたら火を止め、蒸らす)



これでたぶん、誰でも上手に出来ると思う。

興味ある方はお試しあれ。


2001年7月25日 (水)

♪ オリエンテーリング

その昔、

私がまだ教会学校の生徒だったころ、

泊りがけの夏季キャンプで

オリエンテーリングなるものを経験した。



そのとき、



「これにはね、深〜い意味があるんだよ」



と教会学校の先生が言ったのだけど、

深い意味って、何だろう?

子どもたちはみんな、頭の中が疑問符だらけ。



オリエンテーリングというのは、

歳や立場の違う何人かの人間がグループになって、

問題解決をしながら進んでいく遊びである。

大人向けには、ところどころ、

アスレチックを組み合わせたものもあるのだが、



その夏季キャンプの場合、

林の中にある木のいくつかに

なぞなぞに近い内容の「指示文」が貼られているので

まずそれを探し出し、見つけたら

みんなで知恵を絞りあって解読しながら

目的地を目指したのだった。



これは、単純に

子ども同士の親睦をはかる目的で

行われていた遊びだったと思うのだが、

いちばんに到着したら、とか

全問正解だったら、とかいうことで

あとから、さらに

グループ毎のボーナス点が加算され、

思いがけない順位のどんでん返しにわいたり、

ご褒美がもらえて喜んだりしたような

記憶がある。



今日、教会で

友達と話していたら

そのときのことを急に思い出して、



(あ、「深い意味」って

 そういうことだったのか)



と合点がいった。



クリスチャンの人生って、

オリエンテーリングそのものなのだ。



神様が私に指示を出す。

たいていは具体的に次の場所を指示してくださるけれど、

ときには、なぞなぞに近い指示だったりする。

で、



(この方向でいいのかな?)

(この答えであってるかな?)



と思いながら、

とても気持ちのいい自然の中を

私は一生懸命に進んでいく。

すると、遠くの木の幹に、

また、白い紙らしきものが貼ってあるのが見える。



(あれだ!)



胸を弾ませながら、駆け寄って読むと、

紙には、次のヒントが書いてある。

たとえば、

どこそこに、どういう人が立っているから、

その人に「○○○」と言いなさい、

そうすれば、その人が、

次の紙の貼ってある場所を教えてくれます、

などなど。



言われた通りに進んでみると、

そのような人に出会ったので

勇気を奮って「○○○」と話し掛けてみる。

するとそれが合い言葉になり、

今度は、その人の案内で、

ちょっと隠れたわかりにくい場所に

次の紙が貼られているのを見つけることができる。



(やった!)



私より先に進んでいく、他のクリスチャンの姿が、

時折、林の中に見え隠れしている。

それがまた、楽しくて、励まされるようで、

心をかきたてられる。



そしてまた、私も進んでいく。



ゆっくりでも、

無事到着できれば



「おめでとう! 待ってたよ〜」



と、みんなが笑顔で迎えてくれ、

あとで、食卓を囲みながら

いつまでも、あのときこのときの体験談で

盛り上がることの出来るオリエンテーリング。



はじめての地を、そのときどきの

神様からの言葉だけをたよりに歩む・・・

クリスチャンの人生って、本当に、

オリエンテーリングそのものなんだなあ。


2001年7月30日 (月)

♪ 恵み

真剣に祈らざるをえないような

問題や課題があるっていうのは、

ある意味、

本当の恵みかもしれない、と

最近つくづく思っている。



もっとも、

苦しんでいる“その最中”には

とてもそんなふうに感じる余裕など

ないのだけれど・・・



でも、やはり

ある事柄について

悩んで悩んで悩みぬいたために、

そのことについて、

祈って祈って祈り倒すはめになり、

結果、神様から

その問題に対する答えはおろか

将来にわたる希望までも

与えていただくことができた、

ということが

私にもたびたびある。



たとえば、子どものこと。



どんな親にとっても

長子とはそのようなものかもしれないが、

倫太郎も、私にとっては

かなり育てにくさを感じさせる子どもである。



信仰によって

祈りによって

いつかなんとかなるでしょう、

そうです、

心配無用、

信じるものにとっては

すべてが益とされるのです。

アーメン! 



などとは

どうも言えない状況にあった。



親として、

脳みそが擦り切れるまで考えぬき、

また祈りぬいて、

目を見張りながら

かしこくかしこく進んでいく必要性を

いつも感じていた。



でも、そのことについて

安易に人に相談してまわったり、

悩んで試行錯誤している自分への

理解を求めようとする気には

なれなかったし、

もちろん、

この日記で愚痴る気にもなれなかった。



それに、

相談したり愚痴ったりするとしても、

悩みの内容が深刻なわりには

大変微妙で主観的な事柄が多かったので、

相手に伝わるように説明するのも骨が折れ、



結局、そんなこんなで

よく祈っていた。



八方ふさがりで、

とてつもなく孤独で、

涙ばかりが流れる日が続いた。



そのような中、

今年の3月頃、

ひょんなことから

倫太郎の人生に関わると思われる

ある大きな決定を

しなければならなくなった。



右か左か、

どちらに決めるとしても

王道のようなものは見当たらず、

私たち両親が引き受けねばならない責任は

重過ぎるように思われた。



そのことについて

ほとんど

ノイローゼになりかかっていたのだけれど

その件についても、

神様ははじめから

同じ意味のふたつのみことばを

励ましとして与えてくださったほか、



ついに先週、

はっきりとした具体的な方向性をも

示してくださったのだった。



それが、

大幅に割愛しているけれど

「倫太郎について語られたこと」

として

日記に書いた内容だった。



それには、

ただの平信徒である私に対して与えるには

大きすぎるのではないかとも感じられる

個人預言的な事柄も含まれていた。



私は、

のしかかる重圧に喘ぎながら、

ただひたすらに



(私をひとりにしないでください)

(あなたが見るように見る目を与えてください)



とつぶやいたにすぎない。

そして、多くの祈りは、

「祈り」といえるほどの

ものだったとも思えない。



けれども神様は、

ついに

その声に答えてくださり、

あたたかく深い

とつぜんのご臨在とともに

倫太郎をどのようにご覧になっているのか

また、彼のどんな部分について

私たちがどんなふうに受け入れればよいのか

ことこまかに分かち合ってくださり、



言葉では表現できないような

安心感と感激で

私を満たしてくださったのだった。



それは、

前述の「決定」まで

たった2日ほど残された

夜のことだった。



この期におよんでそんな決定を下すのは、

顰蹙だといえるくらい

ぎりぎりだったのだが、

そのことで

他者に迷惑をかけるようなこともなく、

スムーズに事は運び、

平安と確信を持って

よい方に決めることが出来たのだった。



*************



とても御前には

持っていきたくないような、

複雑かつ醜い問題も

自分でも気づかないまま

たくさん抱えている私だけれど、



いつか時が満ちて、

心を強くされ、

そのことについても

少しずつ直面できるようになるとき、



その嫌な事柄を通してこそ、

神様のさまざまなご計画が

手品の種明かしのように

ひも解かれていき、



また、

聖書に書かれている

神様のご性質のすばらしさが

いったいどれほどのものなのか、

その片鱗を

心ゆくまで味わうことが出来るように

なるんだろうな・・・、

と思ったりしている。



これからの人生に、



(もう駄目かもしれない)



と思うことは多々あっても

本当にそのまま

終わってしまうことはないだろう。



なぜなら、

神様がいつもともにいて

私に必ず答えてくださるのだから・・・




以上、3日分です。
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のこちゃん