(おしぼりで顔を拭きながら) ママ、ぴて〜! ぴっか、ぴっか! 訳:「ママ見て、ピカピカになっちゃった♪」
ねんねでおっぱいがいい〜♪ 訳:「布団でねんねしながら、おっぱい飲ませてほしいですぅ♪」 (助詞を使えるようになったのがポイント。)
ドーナツ 枝豆 プチトマト キャンディ型のチーズ 鳥のつくね バナナ 麦茶
何でもそうだけど、 ほどほどがいいんだなあと思っている今日このごろ。 聖書の中にも、たしか伝道者の書あたりに そんなようなニュアンスのことが書かれていた気がする。 なーんて、ほどほどがいいなんて思うのは、 単に私がむかしより歳を取った、 というだけのことかもしれないのだが・・・。 でも、育児をしていると やっぱりそういう結論になるんだな。 遊ぶことについても、 食べることについても、 休むことについても、 学ぶことについても、 与える/与えないことについても、・・・ やりすぎはだめだ。 まさに、「過ぎたるは及ばざるがごとし」。 やりすぎてしまう状態って、 そもそもは親心から出てくるものだと思うのだが、 やっぱり「〜すぎ」という状況からは、 本当に良いものは生まれてこない。 それじゃあどのへんでバランスをとったらいいのか? うん、それが問題だ。 あれがよくてこれがだめ、と はじめからきっぱり決まっていることって案外少なくて、 むしろ、その都度いろいろな判断をしながら 神様からゆだねられたすべての事柄について 正しく管理していくよう任されているんだよね。 (と、思わず自分に向かって再確認・・・) だからみんな祈るんだろうな。 ちなみに、私の場合、 祈っていく中で整理されていくのが 「何をしたらいいのか」という事柄そのものではなく、 むしろ、私自身が神様や家族と 「どういう関係なのか」という事柄なのだけど。 たぶん、悩んでいるときって,悩み「すぎて」、 肝心の焦点が,ずれてきちゃってるんだろうな。
ね、ママ。 じゅうじかで、つみがゆるされてるんだよ。 (倫ちゃん、十字架ってなんだか知ってるんだ?) うん。 じゅうじかってね、とっても、 かなしいこと。 (ふーーん・・・よく知ってるんだねえ・・・) ねえねえ、 バナナもういっぽん、たべていい〜♪?
あなたの家は、小さくて目立たないかもしれない。 しかし、その立っている場所を見よ。 そこは、神であり、堅い岩である 「キリストの言葉」である。 あなたの家は、どんなときも決して揺るぐことがない。 それはなんと幸いなことだろうか。 世の人々を見よ。 彼らの家は、見るからに麗しく、立派である。 彼らは互いにそれを見て、自慢しあったり、 ため息をつきながら羨ましがったりするかもしれない。 しかし、その立っている場所を見よ。 そこは、「人の言葉」「サタンの言葉」である。 彼らの家は、日々揺れ動き、 また、彼らの心は、その地盤の緩いのを知って不安に満ち、 また、その大きな家を維持するのに疲れている。 しかし、あなたに理解してほしいことがある。 あなたにこのようなことを示したのは、 彼らが間違っていて、あなたが正しい というようなことを言いたいからではなく、また、 彼らが劣っていて、あなたが勝っている というようなことを言いたいからでもない。 私がどんなに、世の人々を愛し、 彼らの滅び行く魂を思って渇望していることか、 そして、あなたに与えたような、素晴らしい家を 彼らのためにもすでに備えており、 さあここに来て住みなさいと招き続けていることか、 そのことをあなたに知ってほしいからなのだ。 あなたの網をおろしなさい。 私が、その中に、これらのおびただしい人々を入れてあげよう。
以上、3日分です。
[最新版]
[一覧]
[戻る]
このページはTsDiarySystemを用いて生成されています。