(寝言で)
「・・・・わ。(驚愕)・・・・わ。(驚愕)」
(夕食時、眠いので泣きながら)
「りんちゃんはぁ、おかしはじぶんでたべられるけろぉ、
ごはんはたべられないの。ね?
だからぁ、ママ、たべさせて〜。
・・・いーーーや。い、や、な、のぉ。
りんちゃんはぁ、もうつかれてるから、
ごはんはじぶんでたべたくないの。
たべたくないんだけろぉぉ。じゅくじゅく。」
(最後のじゅくじゅくがポイント。
「かにむかし」にでてくる蟹のせりふをもじったらしい)
朝目が覚めたとき、
「3年後に産みます」
と神様から言われた気がした。
もう少し祈ってみた方がいいと思うけど、
産みます、って、やっぱり子どものことかしら。
夕方になって、
女の子の名前が一つ、ぽぽんと頭に浮かんだので
ひとりでにやにや。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
生きた、きよい捧げものとして捧げなさい。
それこそ、霊的な礼拝です」
このみことばが、ずいぶん前から心の中に響いていて、そして、
(なんでからだを捧げるのがいいんだろう)
(からだを捧げるってどういうことだろう)
などと考えていた。
そしたら昨日、祈りの中で
ふと目が開かれたような気がした。
からだっていうのは、
あんまり意識してなかったけど、
実は私がいちばん大切にしているものだったのだ。
与えられているものの中で、
もっとも大切なものだから神様に捧げる・・・
そういう愛の表現こそが
礼拝として受け入れられ、喜ばれるもの。
っていうことなんだなあ。
ふむ。
捧げる、というテーマで
今私の心の中に響いているところがもうひとつある。
それは、アブラハムがイサクのからだを捧げるところ。
捧げたんだけど、結局アブラハムの気持ちだけが受けとられて
イサクは再び彼の手の中に戻ってきた・・・。
捧げても大丈夫なんだよ、
って言われている気がする。
そして、あなたの子供たち、
あなたの夫や両親についての思いを
いま決心して、すべて私に捧げなさい、
と言われている気がする。
捧げなさい。
それはあなたにとって、もっとも大切なものなのだから。
握り締めている手を開いて、
捧げなさい。
今。
・朝
全粒粉パンとマーマレード
卵とアスパラ入りコーンスープ
・昼
のりご飯
鶏の照焼き
えびとしいたけ入りシューマイ
かぼちゃの煮付け
枝豆
麦茶
・おやつ
チーズケーキ
紅茶のリーフパイ
コーヒー
・夜
ご飯
ワカメの味噌汁
天ぷら(タマネギとニンジン、ピーマン、レンコン、豆腐、しいたけ、イカ)
・夜食
バームクーヘン
(めくられて新しくなったカレンダーを見ながら)
「9がつは、どこにいっちゃったの?」
(母親に抱かれて眠る新生児を指差して)
「ママ、みて! サルがいるよ?」
イサクは尋ねた。
「火とたきぎはありますが、
全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
恵嗣郎が、右足の前へ左足を、左足の前を右足を、
といった感じで、よろよろふらふら歩いている。
両手をちょっとあげ、腰を軸にして
ときどき後退しながらも嬉々として動くようすは
さながらマンボダンサー。
楽しそうだなあ。
自由が丘の「ホームケーキ」で、
製菓・製パン用品を眺めてきた。
値段が高いのが難点だけど、
専門店だけあって、わりと品揃えが豊富だ。
こういうところに来ると、なんだか独身時代を思い出すなあ。
ウインドウショッピングを楽しんだ帰りみち、
「GAP」の近くをぶらぶらしていると
小さな坊やとお散歩を楽しんでいるらしい
どこかのパパと目が合った。
そのパパは、髪が長くて、そして
すごく大きな、スキーの時にかける
ゴーグルみたいなサングラスをしてたから
視線がどこに行っているのかあんまりよく分からなかったけど、
どうも、恵嗣郎を見て、倫太郎を見て、それから私を見て
30秒くらい、ぼーーっと何か考えてるみたいだった。
なんとなくつられて、私も
立ち止まって見つめ返してしまった。
そのとき、あっ、と思った。
見覚えのある、口もとの大きなほくろ。
あの、どことなくオーラのある非一般人っぽいいでたち。
元チェッカーズの武内亨じゃないかー。
今度は、私が坊やを見て、もいちどパパを見て
30秒くらいぼーーっとする番だった。
御霊は一つだが、
御霊の語りかけをどう受け取っているかは
個人個人で少しずつ違っているようだ。
ほかの兄弟姉妹の証しや預言を聞いていておもうのだが、
私自身は、若干きびしめなニュアンスに
色付けして受け取っていることが多い気がする。
したがって、特に、
自分が神様に語られたと感じることを、
礼拝の中で「預言」として教会全体に取り次ごうとする場合は
いつも以上の吟味が必要だと思う。
自分の親イメージのようなものを投影しているのかも。
なんだか知らないけど、朝から疲れていた。
立ち上がると足の裏が痛む。
こういう日ってあるんだよなあ。
午前中はうちで静かに遊んで、
昼ご飯前にちょっとだけお昼寝をして、
夕方から子供たちを連れて郵便局と島忠にでかけた。
島忠では、かねてからの念願だった
「1グラム単位ではかれるデジタル秤」というのを購入。
見てまわった中では、
やはりこの店が一番安かった。
これで、もっといろんなパンを作れるようになったぞ。
そうだ、日、月と
幼稚園の運動会があるんだっけ。
パパと見に行かなくっちゃ。
・朝
全粒粉パンとマーマレード
コーヒー牛乳
野菜ジュース
・昼
アボカ丼(アボカド、厚焼き卵、海苔、カイワレ)
・おやつ
ブルーベリーティ
バームクーヘン
・夜
チャーハン(卵、あさつき、ほうれん草、焼き豚、揚げだし豆腐)
大根餅
水餃子
・おからとドライフルーツのふわふわパン、2次発酵(朝食用)
・昼は簡単に「うどん」かな?
・夜は、T家にお招ばれの可能性。♪
そういえば、幼稚園選びのことで
いろいろ祈っているのだが、いつも示されているように思うのは
倫太郎の育てかたについての姿勢が、
自分と神様とでは全〜然違うんじゃないかということ。
私は、
(お母さん同士の交流が多くて、こぎれいで、
全体に行き届いた感じのする、N幼稚園が適切かなあ。
園長先生は牧師先生で、すごく素敵な方だし・・・
実家からも近いし・・・)
と踏んでいるのだが、
このことを祈りの中に持っていくと、神様は、
(M幼稚園はどうですか。
たしかに、部屋は古びていて薄暗いし、
あまり身なりのいい父母も見当たらない。
教育方針も、のびのびと言ったらいいのか
放任と言ったらいいのかわからないと
あなたは不安を覚えているようですね。
もっともなことです。
しかし、ここなら、
倫太郎はいろいろな経験ができるのではないですか?
私は、ネガティブに思えるようなことも
倫太郎に味あわせ、
たくましく育ててやりたいのです。
また、ここなら、
今の教会からも、移転後の新会堂からも
地理的に行き来がしやすいですよ。
あなた自身が楽なはずです)
と語られているような気がする。
いや、間違いなく語られてるんだろな。
こうやって書くと、我ながらいやに具体的だもん。
でも、ため息が出るくらい
気が進まないんだよな〜。
私立ミッション系のN幼稚園と
いちいち比べるからいけないんだろうけど、
M幼稚園て、まず、校舎が驚くほどぼろくて
カーテンも床も遊具も窓も汚れてるのだ。
そして、
(もしかして、一日中、
庭のアスレチックで遊んでるんじゃないの?)
って思ってしまうくらい、室内のおもちゃが少なくて、
芸術的な雰囲気も薄いのだ。
(折り紙で作ったものが飾ってあるとか、
壁面構成がなされているとか、
手作りの楽器が置いてあるとか、一切なし)
それに、先生たちは、みんな見た目が「体育会系」で、
どっちかといえば、先生というより
気楽な大学生同士みたいな雰囲気で喋り合ってるし、
園児とくれば、ちっともじっとしてなくて
山猿みたいなのであった。(笑)
はー。
もう少し祈ってみよう。
クリームシチュー(朝食用)
ふすまとドライフルーツのパンの2次発酵(朝食用)
3色ピラフの下ごしらえ(お弁当用)
チキンナゲット(お弁当用)
(横倒しになっている椅子を起こそうとするが、
重くてうまく起こせないのでべそをかく)
あれ、あれあれ?
イエスのな、ま、え〜、イエスのな、ま、え〜。(力みながら唱えている)
は、できた。
ぴじゅちょら、ぴじゅ。
(水ください、水。)
出産直後から、どうも体調が思わしくない。
だるかったり、内臓がはれぼったいような感覚があったり、
なんだかんだといやな感じが続いて
もう1年にもなる。
在宅女性のための婦人検診を受けて、
結局~どこが悪いのかわからなかったのが
5月頃のことだったっけ・・・。
そろそろまた検査に行ってみようかなあ。
いろいろ調べてみて、(子宮筋腫かな?)
なーんて思ってるんだけど。
疲れたなあ。
それに胃が痛い。
コーヒーの飲みすぎかしら。
ひとりでのんびりしたいよう。
箴言9からの抜粋です。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/
聖なる方を知ることは分別の初め。
*****************************
「主を畏れることは知恵の初め」という言葉は
箴言全体の中に何度かでてくる言葉です。
箴言の中心的な主題です。
「主を畏れる」というのは、
神様について「恐怖」するという意味ではなく、
神様を礼拝の対象として崇拝すること、
尊敬することです。
「主を畏れる」ということの
具体的な形のひとつが「礼拝」です。
なぜ、それが
「知恵の初め」「分別の初め」につながるのかといえば、
神様を礼拝することで、
自分の中の「不完全性」「罪」「知恵不足」「力不足」
「神の形に作られたのにその分を果たし切れていない不足感」
などを痛いほど教えられると同時に、
「神様の愛」「神様からの赦し」「神様からの癒し」
「神様の清さ」「神様の力」などを
教えられることになるからです。
「人間よりも偉大な誰か」を認めることで
「不遜や尊大」から離れ、
「謙遜さ」が身についてくるのです。
不思議にも、
礼拝という出来事の中で、それが継続されると
なおのこと、
「神様に生かされている自分がわかってくる」
ようになるものです。
そういう知恵は、いわゆる
「論理的な知恵」というのと
ちょっと違っているかもしれません。
論理的と言うより、
「霊的、精神的なうなずき」と呼んだほうが
ピンとくるものかもしれません。
考えてみれば、「礼拝」という作業は
人間特有のものですよね。
猿が、人から教わることなしに
「神社で毎朝手を合わせる」とか、
犬が、お寺にお参りするとかいうことはありませんものね。
でも、だからこそ、「礼拝」という要素は
私たちの中から排除してしまっては
いけないものなのかもしれませんね。
もちろん、
誰を、何を礼拝するのかという問題はありますが、
「礼拝」できることは、
人間らしく生きることと
つながっていることなのかもしれません。
人格的な成長とも関係あるようです。
ところで、
あなたの礼拝対象は「どなた」ですか?
「主」と呼ばれている方を見直していただけたら幸いです。
あ、そうだ、今週の土曜はいよいよバザーだなあ。
ケーキは何作ろうかなあ。
・ポテトブレッドの2次発酵(朝食用)
・お弁当は、今夜の晩ご飯からほとんど流用。
今日行われる予定だったN幼稚園の運動会は、雨でお流れに。
M幼稚園の方だけ、昨日ちょっと見てきた。
応援する先生たちが、生き生きしててなかなかいい。
かけっこは、年少〜年長まで縦割りの
「バトンリレー」だったのだが、
先生たちは、自分のクラスの子供たちが
バトンを受け取るたびに
「たくやーーーーー!!!! いけーーーーーー!!」
「りゅうじーーーー!!!! ぬかれんなーーー!!」
といった調子でものすごい声を上げ、
ぴょんぴょん跳ねながら腕を振り回している。
ほんとーに体育会系。
で、子どもたちがまた速い。
足の悪い子とかもいろいろいるのだが、
なんのハンデもつけずにガンガン走っている。
場内は大喝采。
園長先生は、応援席で
子どもたちにぶらさがられたり、つつかれたりしている。
きっと普段からこういう感じなんだろうなあ。
以上、7日分です。
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