布団干し。
掃除。
料理。
公園。
入浴。
おやすみ前の歯磨き・・・。
パパがフル稼働して、休日は暮れていった。
そのせいか、土曜も、日曜も、
パパは午後からキレてしまい
無表情ときどき激怒という空模様になっていた。
まるで、平日の自分を
鏡に映して見ているようだ。
似た者夫婦ということか?(笑)
そういうパパの姿をかいまみるとき、
「あなた今日はがんばってるもん、
無理ないよ〜」
などと自然に思えるし、口に出しても言えるのだが
自分自身が毎日の子育てに疲れ果てて
プツっとなっているときには、
責任感と罪悪感ばかり先立って
内へ内へとこもるという悪循環を生んでしまい、
なかなかそういうふうには
自分を評価したりできない気がする。
まあ、普通の奥さんて、みんな
そんなもんかもしれない。
でも・・・
私といっしょに(もしくは、私のかわりに)
がんばってくれてるパパを見るとき、
自分に対する自己評価も変わっていくんだな・・・。
自分の人生のかたわらを、
自分と同じものを見つめながら
歩いていってくれる人がいるっていうのは
本当にすばらしいこと・・・。
そんなことを、つくづく感じた休日だった。
「偽善者たちの声に耳を傾けてはならない。
私に聞きなさい」
ここしか覚えてないんだけど、
今日の礼拝で この言葉から始まる預言を聞いたとき、
(あ、神様は私に語ってるんだな)
と思った。
それで、直感的な決断だったんだけど、
専門家に相談するのは、
今回のことも含めて、今後一切やめることにした。
別に、私は
専門家へ相談するっていう行為を否定しているわけでもないし、
専門家イコール偽善者だと理解しているわけでもない。
ただ、
「私に聞け」
っていう言葉を耳にしたときに、
(ああ、やっぱりそうなんですね〜)
と自分の方向を確認できた、
という感じだったのだ。
聞け、っていうことはつまり祈れっていうこと。
神様は、私に、“祈りなさい”ばかり言ってるなあ・・・
(同じ事なんども言わせるなって感じだったりして・・・)
昨夜祈りながら
ふと感じたのは・・・・
(私って、えらくズレてたんじゃないか?)
っていうことだった。
私に必要だったのは、
神様の前で自分の罪深い性質を悲しむことだったのに、
いつしかしらないうちに、神様に対して
自分の窮状を訴えて解決を求めたり、
なぐさめを求めたりすることに
終始するようになっていた気がするのだ。
つまり、言葉としては
そうは言ってなかったかもしれないけど、
“神様ごめんなさい”とひれ伏すべきときに、
「私は困ってるんです、神様。
どうか助けてください」
と主張していたわけだ。
ああ・・・・・己を知らないというかなんというか、
なんちゅう不遜な態度だろう。
ひょっとして、私の人生って、
今までずっと ズレにズレて来たんじゃないかなあ?
っていう、納得に近い疑問も心の中をよぎる。
感謝すべきときに不平を言い、
祈るべきときに言いふらし、
共に泣くべきときに見下ろして笑い、・・・
もしそうだとしたら、
私ってものすごーーくカワイソーーな人だ。
なんだかんだいって、
なっちゃいなかったんだなあ。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
ここに希望があります。
ここに希望があります。
「ねえねえ〜 ママ、あそぼうよ〜」
「ちょっとは休ませてよ〜。
いまやっと座ったとこなんだからさ」
(コップを片手に、インターネットへアクセス中)
「やすまないと、どうなっちゃうの?」
「ママのここにある白髪がどんどん増えてね〜、
それから、顔もおててもしわしわになっちゃってね〜、
ママ、おばあちゃんになっちゃうんだよ」
(身振り手振り)
「いいよ」
(真顔)
「よくないでしょ」
「いいよ」
「ママが〜、おばあちゃんになっちゃったら〜、
りんちゃん、やでしょ?」
「いいよ、りんちゃん、
おばあちゃんがいいの」
(私の母、つまり自分の“おばあちゃん”のことを
思い浮かべているらしく、なにやら目が輝いている)
「あはははははははは・・・
そっかあ、りんちゃん、おばあちゃんが好きだもんねえ」
(そもそも、倫太郎は
“老いる”ということに対して、
ネガティブなイメージを持っていないらしい)
「うん。ねえ、ママあそぼうよ」
「少しは休ませてよ。
いまやっと座ったところなんだからさ」
(以下エンドレス)
(玄関でおばあちゃんを出迎えて)
あっ、おばあーーちゃーーーん♪
ちょっと、あがって、りんちゃんとあそんでってくらさいな♪
ちらかってますけど、どうぞどうぞ〜♪
万軍の主、聖なる方が
今、あなたのこころを探っておられます。
わたしの愛する者よ。
きよい手を上げて
わたしに祈り、また賛美しなさい。
あなたの、
そのふりかざした手に握られている石つぶてを
わたしにゆだねなさい。
わたしは、
あなたのこころを探ることのできる
唯一の神である。
わたしは、
あなたの怒り、悲しみ、
また罪のすべてを知っている。
きよい手を上げて祈りなさい。
わたしの愛する者よ。
きよい手を上げて
わたしに祈り、また賛美しなさい・・・と
主は言われます。
あとひとつきで、恵嗣郎も1歳かあ。
近頃、「ヒトゲノム」という単語が
頭の中を駆け巡ってしかたない。
だってなんかインパクトある語感だもんね。
パパによれば、「ヒトゲノム」とは
遺伝子のことを指す科学用語かなんからしいけど、
私の脳裏に浮かぶヒトゲノムは、
にょろにょろによく似た妖怪だ。
白くて細くて なんだかにゅるにゅるしてて
ヒトの毛穴から毛穴へと団体で移動する妖怪ヒトゲノム。
はじめに雑誌の広告か何かで
この単語をみかけたときに、
ちゃんと意味を確かめておかなかったため
私の頭の中で、こわい想像がどんどん広がってしまった。
朝
・全粒粉パンにジャム
・シーザーズサラダ(レタス、アボカド、トウモロコシ)
・コーヒー
昼
・ごはん
・天ぷら
(わかさぎ、ナス、ニンジン、タマネギ、ピーマン)
・刻みモロヘイヤにおかかと醤油を混ぜたもの
・豆腐のお味噌汁
おやつ
・モンブラン
夜
・混ぜご飯のおにぎり
(ひじき、ニンジン、ゴボウ、油揚げ、胡麻)
・ゆでたまご
朝
・中華ふうおじや
(ごはん、豚肉、モロヘイヤ、ニンジン、玉ねぎ)
・かぼちゃのペースト
昼
・おかゆ
・モロヘイヤ
・豆腐のお味噌汁
・フライドポテト
夜
・中華ふうおじや
りんちゃんねえ、おとなになっても
かいしゃ、いかないよぉ。
ママといっしょじゃなきゃ、いやなの。
ゆでたまごはねえ、
そらのおほしさまが、ぽとんて
おちてきてできたんだよ。
あ、でんしゃが
あせかいてるよ、ほら。
(クーラーからの排水を見て)
恵嗣郎は、手足口病にかかっている様子。
発疹をかゆがり、食欲は薄れ、機嫌もよくないが、
今のところ熱も出ず、わりあい元気に過ごしているように見える。
ここのとこ、急に病気にかかりやすくなってきたなあ。
倫太郎も、原因はまだ不明だが高熱を出している。
もしもおたふくかぜだったら、
恵嗣郎にうつるとあぶないから(髄膜炎を起こす可能性あり)
おばあちゃんちに隔離してもらわないといけないかなあ。
ついでながら のこちゃんも風邪気味のため
いっしょにダウン中。
・リセットしてくださる神。
(誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです)
・親子の間に必要なのは
インフォームドコンセントのようなもの。
箴言23からの抜粋です。
23:17 罪人らのことに心を燃やすことはない/
日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。
***********************************
自己中心に生きている人の成功をねたんではならない。
むしろ、神様を礼拝するということができているかどうかに
心を向けないさいという勧めの言葉です。
私たちの世界は、いつも正義が実現しているわけではなく、
誠実な人だけが成功している世界でもありません。
どう考えても「正直者が馬鹿をみる」ようなせ界です。
弱者が常に弱者のまま放置され、
偽預言者のような人物が評価されているような世界です。
イライラし、憤りを感じることが少なくありません。
憤ること、正義を切望すること、悪が減少することを願うこと自体は
当然であり、悪いことではありません。
この個所での警告は、さまざまな不正による「この世の成功」に対して、
「ねたみを起こさないように」というものです。
この世における、不正による成功をうらやましく思うなという勧めです。
むしろ、あなたは神様の前に誠実に歩み、
礼拝者として熱心に礼拝をささげつつ、人格的に成長しなさい
という教えがここにはあります。
心のどこかで「あなたはあなた、わたしはわたし」という
姿勢を持たなければなりません。
他者の成功をうらやましがることなく、罪人をうらやましがることもせず、
自分は自分としての社会的な分を果たし、神様に対しても礼拝を捧げ、
自分の進むべき道を淡々と歩むこと、
そこに重大な「あなたらしさ」が光るのです。
ところでなぜ、「罪人らのことに心を燃やす必要がないのか」と言えば、
答えは単純で、「彼らには、必ず終わりが来る」からです。
人をだますことができても、神様をだますことはできないからです。
箴言24からの抜粋です。
24:29 「人がわたしにするように/わたしもその人に対してしよう。
それぞれの行いに応じて報いよう」とは/あなたの言うべきことではない。
***************************
私たちは、自分に対する他者の行為を案外、根に持ち、
いつしか「仕返し」「反発」「報復」と
その反応がどんどん過激になっていく傾向性を
もってしまうことがあります。
「目には目,歯には歯」という言葉などを楯にして、
「目には目,歯には歯」ではなく「目をやられたら,目と耳を」
「歯を殴られたら,歯と顔を殴り返す」ような仕打ちを
あたりまえのこととして行為してしまうのです。
「仕返し」「報復」は結局,祝福の実を結ばせることはできません。
それでは「泣き寝入り」しかないのかというと、
そんなことはありません。
「神様に、最終的な判定を任せる姿勢」が大事なのです。
神様が必ず、どこかで、あなたの涙や苦悩を知り,必ず相手に対して
私たちの考える方法とは違うとしても、
報復や裁きを発動してくださることを信じる姿勢が大切です。
実に難しいことですけれど、私たちに対する大きな課題です。
恵嗣郎と熱烈なチューをしていたのがたたったのか、
大人の私まで、手足口病にかかってしまった。
熱はなんとか薬で下げたが、まだ、嚥下するときに
喉の奥がしみて痛むので、うまくものが食べられない。
水分の摂取量が相対的に減っているらしく、
起きているだけで ふらふらする。
耳の中も ちょっとじくじくしていて、ちょうど中耳炎のときのような感じ。
今日になってから、手のひらと足の裏にブツブツが出てきて、
いよいよ「それらしく」なってきた。
ちなみに・・・、
手足口病とは、夏〜秋にかけてはやる、子どもの感染症。
(好発年齢は5歳以下で、1歳から3歳くらいがピーク)
体に対しては、鼻風邪程度の影響しかないらしいが、
ごくまれに心筋炎、脳炎を合併することがあるとのこと。
エンテロウイルス71型では無菌性髄膜炎を合併することも。
ついこないだ、台湾で数十名の乳児死亡があり、
ニュースになっていた。
「この陽気だし、麻疹の後なので、
恵嗣郎くんの症状は重くなるかもしれないです」
と主治医にいわれてビビっていたのだが、
結局、恵嗣郎は発疹が派手に出ただけで終わり、
大人の私の方が、発熱やら何やらで長いことへばってしまった。
ともあれ、めでたしめでたしである。
以上、10日分です。
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