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ま日記

─── 2000年06月下旬 ───
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2000年6月20日 (火)

♪ 退院しました

ご心配をおかけしましたが、おかげさまで、
恵嗣郎の経過は良好で、月曜日に無事退院することが出来ました。
ひとまず、やれやれといったところです。

ただ、はしかのほかに、合併症として
肺炎・肝炎・気管支炎・結膜炎・中耳炎・・・など
さまざまな病気を併発していましたので、
見た目が元気になったからといって あまり軽く考えず、
あと1か月ほどは自宅で安静にしているようにとの指示を受けました。

倫太郎はまだ私の実家の方にいます。
大人同士の会話をじっと聞いているようで

「りんちゃんがいると、おばあちゃん、つかれるの?」
「りんちゃんがいると、めいわく?」

などと尋ねるので、祖父母の方で

「そんなことないよ」

といって引き止めているようです。
子どもの感受性はあなどれません。

のこちゃんは、ほっとしたのか
看病疲れが出て、くたっとしています。
骨の髄から眠気がしみ出してくるような感じで、
おひるねばかりしています。

引き続き、覚えてお祈りくだされば幸いです。
お一人お一人にメールをすることが出来そうにないのですが、
みなさんの温かい励ましを心から感謝しています。

短いですが、取り急ぎ、お礼まで。


2000年6月21日 (水)

♪ 読む・聞く・書く・話す

人の話を聞くときのことなんだけど・・・

私の場合、相手のしゃべりことばを聞くと、
まず、それがそのままテキストに変換されて
頭の中にたまっていくのである。
そして、ある程度の文章量になったところで、
はじめてそれを読み、それから考えはじめる、という作業をしている。

つまり、音声を聞いてダイレクトに反応しているんじゃなくて、
聞いた内容をいっぺん文字にして、それから読んで考えてるのだ。

これって私特有の処理なのかなあ。

そのことに関係あるのかわからないけど、
私は、むかしから
聞いた話を覚えておくのはすごく苦手なのだが、
読んだ話や書き留めておいた話を覚えておくのは、
わりと得意だった。
(まあ、当たり前のことかな・・・)

聞いたり話したりすることより、
読み書きの方に依存してるんだねって
ダーリンに言われて、あっそうかもって思ったんだけど。

♪ 酸っぱい葡萄とキツネ?

だれしもそうなのかもしれないけど、
私だって、人に耳を傾けてほしい事柄を
心の中にたくさん持って生きている。
どうでもいいことを、フツーに聞いてくれる人が
どこかにいないかなって考えることもある。

実家に行くと、私は、
母親が聞いていようがいまいがおかまいなしに
機関銃のようにしゃべり続けている自分に
ふっと気がつくことがある。

そういうとき、きまって
(この人とはちっとも仲良しじゃないのに、
こんなに一生懸命に話している自分が不思議だ・・・)
みたいな感覚に襲われる。

まあ、たぶん、
これが親子のナントカなんだろうけど。<ナントカって??

そういえば、うちのダーリンは
「そういう相手」じゃないんだよなあ。
聞いてほしいことはたくさんあるけど、
残念ながら、ダーリンに話してもカタルシスがないんだよなあ。

人の話に添っていくっていうのは、
あんまりダーリンには向いていないんだと思う。

でも、ときどき考えるんだけど、
あんまり「わかりすぎない」のは、ダーリンの一番いいところで、
この結婚生活の大きな救いになってる部分かもしれないんだよね。
なにしろダーリンは私の夫なのであって、
神様じゃないのだから。

そういう相手を選んでくれた神様って、
すっごい先見の明があったのかも。

なんか、酸っぱい葡萄とキツネの寓話みたいだけど、
たぶんそうなのだな。

・・と、
私のしたい「どうでもいい話」っていうのは
こういう話のことなのでした。


2000年6月22日 (木)

♪ 変な標識

ちょっと前の日記に、
倫太郎が交通標識にはまってるという話を書いたけど、
今、読んでる「しるし」っていう絵本には、
けっこう変な標識まで載ってるんだよね。
変というか、あんまり一般的じゃないやつ。

山から岩が落ちてくる絵で「落石注意」とか
跳ねている鹿の絵で「動物注意」とか・・・。

ふだん、あんまり見かけない珍しいマークの方が
倫太郎は喜ぶんだけど、
こんなのまで子どもに教えて
どうすんのかなーとか私は内心思ってたわけね。

そしたら。

今日、いつもと違う道を通って図書館に行こうとしたら、
あったのだ。その変な交通標識が。

「みてみて、ほら、どうぶつがぴょんぴょんってでてくるから
ちゅういしてくらさい、ってマークあるよ」

なんでだか知らないけど、玄関のところに
カンガルー入りの英語標識(14キロ先にカンガルーが出ます、ご注意)と、
ワニ入りの英語標識(このあたりはワニがいますので遊泳禁止)とを
飾っている家があったのだ。
どうも、海外で購入してきたものらしい。

倫太郎、大喜び。

♪ 入院中のメモが出てきた

“はしかって、こういう経過をたどる病気なんですよ”
“症状は重いけど、命に別状はないんですよ”

と医者は私に言うけれど、 日がな一日恵嗣郎の様子を眺めていると、

“ほんとにそうか?” “これが普通なのか?”

と疑いたくなる。
七転八倒のすえ、一日かかってようやく出産にこぎつけても

“安産でしたね”

とねぎらわれる、あれと同じレベルの視点で
モノを言っているのではないだろうか、
と納得がいかない。
そりゃもちろん、彼らは
私を励まそうとして言ってくれてるんだろうけどさ。

でも、だめならだめといってくれる方が
よっぽど親切だと思う。
こっちにも、心構えというものがあるんだから。

40度前後の熱も今日で六日目。
はしかには対処療法しかないとのことで、
24時間、脱水症状をやわらげるためのソリタと
合併症を食い止めるための抗生剤の点滴を受け、
笑いもせず、泣きもせず、飲み食いもせず、
ひたすら土偶のようにどす黒く腫れ上がった顔で
ベッドに横たわっている恵嗣郎を見ていると、つくづく、

(これを自宅で看病するのはとても無理だなあ・・・)

という気がしてくる。

昔の人は、一体どうしてたんだろう。

♪

たったひとり、停車中のバスに乗っている。
その窓からきれいな海が見える。
触ったら手に色がつきそうなくらいの美しいブルー。
輝くような砂浜。

波がうねうねと押し寄せてくる。
私を求めて、さかまく波が押し寄せてくる。
迷っているバスの気持ちが、私に伝わってくる。

−この子を波に渡して、自分は逃げてしまおうか・・・−

私をのせたまま、全力で走り出すバス。
迫りくる波があまりに美しくて、
そしてその底知れぬ力がおそろしくて、
窓に額を押し付けたまま、
私は目をそらすことが出来ずにいる。

♪ どうでもいい話 2

倫太郎を「自然の情景」になぞらえると
森に囲まれた、大きな深い湖に小雨が降っているところ
・・・っていうイメージなんだよな。

一方、恵嗣郎のほうは、
春の原っぱに昆虫や動物がたくさんいて、
みんなでかくれんぼして遊んでいるところ
・・・っていうイメージ。

まあ要するに、ふたりの持ち味は
対照的な感じなのですね。

♪ 子どもはあなどれません 2

レゴで電車ごっこをしたときのこと。

まず 普通のブロックで高い橋げたを作り、
その上に、レールブロックを丸くつなげた山の手線状の線路をすえて
陽気に電車を走らせていたら、倫太郎が、
その線路の真ん中の、ちょっと暗がりになっているような場所へ
男の子の人形を置いて、こんなことをつぶやいた。

“これ、りんちゃん”

“りんちゃんねえ、ひとりで、がまんして、ないてるの・・・”

“パパもー、ママもー、けいしろうくんもいなくてー・・・ないてるんだよ”

いやあもう、びっくりしたのなんのって。
これはただのごっこ遊びじゃない、この子にとっての現実なんだ、
と思わせるなにかがそこにあった・・・
とでも言えばいいのか・・・。

とにかく私、
しみじみとしたその口調、その哀調を帯びた言葉に
胸を刺されたのでありました。

そっかあ。
そんなところで、泣いてたんだあ。

思い起こせば、
この家に倫太郎が戻ってきた昨日の夜は、
絵本がどうとかいうささいなことが原因で気がふれたように泣き始め、
結局、食べてきた夕食を全部吐くまで
泣き止むことができなかったんだっけ。

どうしてもしゃっくりが止まらないんで、
息が苦しくなって、それで
お祈りしてよ、ママお祈りしてよ、ってせがまれたんだ。
お祈りしても、だめだったんだけどさー。

おばあちゃんがいいよ、おばあちゃんちにいきたいよ、
と、泣きながらさびしがって言っていたけど、
泣くきっかけなんて、
もしかするとなんでもよかったのかもしれないなあ。

10日分の涙を、たっぷり流したかったんだ、
きっと・・・。


2000年6月23日 (金)

♪ 東ティモールへ

病室でのメモが、またまた出てきた。
日付は書いてないけど、これは、
恵嗣郎の病状が峠を越えた夜のものだから・・・
たぶん、入院して5日目のメモだと思う。

あの夜、私は眠れないままに祈っていたのだった。

「このこと(恵嗣郎の入院)を通して、
 私が主のみむねを知ることができるようにしてください」

と。

すると神様は、その短い祈りにすぐさま応答してくださり、
私のために個人的な預言(と思われるもの)まで
与えてくださったのだった。
その内容は、メモによると、以下のようなものだ。

********

遠い国々にいる、あなたの隣人に寄り添っていきなさい。
具体的に寄り添っていきなさい。
病んでいる子供たちや、貧困にあえぐ人たち
そのようなあなたの隣人に対して。

あなたの分け与えるものが、ほんのわずかであっても、
また反対に、非常にたくさんであっても
私はそれを喜ぼう。
そして、あなたにも
私が味わうのと同じ喜びを味あわせよう。

私は、2匹の魚と5つのパンで5000人を満たす神である。
だからあなたはへりくだって
心に決めたそのことを行いなさい。
しかし、あなたの光を
いたずらに世から隠そうとする必要はない。
あなたの燭台をテーブルの上に置き、
その光を輝かせなさい。

********

「このような小さな者に、
 蒔く種と、よいわざとを備えてくださる神様をほめたたえます」

と私も応答して祈り、病室の天井を見つめたまま
なんともいえない臨在の中、夜明けまで泣いていたのだが・・・、
さっき見たら、その言葉までちゃんとメモしてあった。
とにかく、眠れなかったからな〜(笑)

今日の夕方、教会の互助会から「お見舞金」が出た、とのことで
牧師婦人がそれを持ってわざわざうちに寄ってくださった。
彼女が帰宅した後、さっそく金額を確かめて
何に使おうかなー♪ とウキウキしていたら、
帰宅してきたダーリンがポストから持ってきたものの中に
タイミング良く、ワールド・ビジョンの寄付金募集のDMが。

(あっ)

と思って、しばらく考えて、
ありがたいお見舞金は、そのまま来週
東ティモールへ旅立たせることに決定したのであった。

事後承諾ごめん>ダーリン。


2000年6月26日 (月)

♪ ・・・・。

私は今、心に大きな問題を抱えている。

とある専門筋のHPでチェックをしたら、

“虐待傾向あり”
“産後ウツ傾向あり”

とも診断された。

やはり・・・、という印象だった。
疲れてるから、とか、忙しいから、とか
そういうことが原因で~ 今の私がこうなってしまっているんじゃない。

根本的なところが、
どうかなってしまっているのだ。
と思う。

いや、実はずっと思ってたんだ。

でも・・・。

自分の人生の中に、
こういう問題が浮上してきたとき、
神様だけに頼るべきか、否か・・・。

クリスチャンになって以来、
そういう問いが
自分の中にずーーーーーっとあった。

つまり、専門家のサポートを得ることは、
神様から見て正しいのかどうか
気にかかるのだ。

もちろん、ケースバイケースだ。

それに、私だって、
体の病気や怪我といったことなら
迷わずさっさと病院に行く。

でも・・・。

心の中の深い部分に関わってくることとなると、
どうも、逡巡してしまうのだ。

私の心を探ることが出来るのは
神様だけなのだ。

人じゃない。

自分でもない。

それにこないだ、神様は私に
「あなたの問題を人に話してはならない。
 わたしに語りなさい」
って言ってたのだ。

なのにねえ。

でも・・・。

神様は、こと、この問題に関しては
今まで決定的なことはしてくださらなかったのだ。

「リフォーム」じゃなくて、
「建て替え」が
私の希望だったんだけど。

どうも、「修繕」にすぎなかったような。

だから・・・。

神様のことはひとまずおいといて、
公的機関の専門家を紹介してもらい
そのサポートを得て解決策を探ってみた方が早いんじゃ、
という気持ちが 私の中に生まれてきた。

これって誘惑なんじゃないだろうか。

きっと誘惑だと思うな〜。

わかってるんだけど
ダーリンにも聞いてみる。

ダーリンは言う。

「ユーがすっきりするんなら、
 しかるべきところに行って
相談するのも悪くないと思うよ」

そうですか。
うむ。なんだかさびしい。

でも、いいや。
ダーリンもそういう意見なら、
私は明日にでも行動に移そう。
「虐待110番」にでも電話して、
担当の人に、いろんな不安を打ち明けてみよう。
きっと何か、具体的なアドバイスとか慰めの言葉とかを
聞くことができるだろう。

それでこの問題は解決だ。

でも・・・。
寝る前にもう一度だけ祈ってみようかな。

最後にもう一度だけ。

あなたの祈りの帆をあげよ、って
こないだのメッセージにもあったから。

それで返事が来なかったら、
ほんとに明日、誰かの私のサポートを頼もう。


2000年6月27日 (火)

♪ 昨夜語られたこと メモ

(ひとつの映像が見える。
 倫太郎の頭に、大きな、重そうな石がのっている)

あなたは子どもに過度な期待をしている。

たとえていうなら、それは
ひとかかえもあるような漬物石を
子どもの頭にのせているようなものだ。

子どもに注いでいるあなたの目を
わたしに目を向けなさい。

この世のものを見つめているあなたの目を
わたしに向けなさい。


2000年6月30日 (金)

♪ 出生以前の記憶

−ねえ りんちゃん、
 ママのおなかの中にいたときのこと
 覚えてる?

「うん」

−どんなとこだったの?

「うんとね、でんきついてなかったよ」

−楽しかった?

「うん(こくこく うなずく)」

−生まれてきたときのことは覚えてる?

「うん、おぼえてるよ」

−どんなだったの?

「ぴか、ぴか、ぴかーーーーーーーっって!」 (最後のぴか、に力を込めながら、  顔のそばで手をひらひらさせる)

−おなかのなかで、りんちゃんなにしてたの?

「なーんにもしてなかった」

−なにか音は聞こえた?

「うん、おせんたくのおと、してた。
 ががががーーーって」
(ふたたび力を込めて
“ががががー”のところで片手を振りまわす)

−パパがりんちゃんにお話してたんだけど、
 それは聞こえた?

「うん」

−パパ、なんて言ってたの?

「“あそぼうねーーーーー”って」

−りんちゃんはなんて言ったの?

「“あそばないよ”って(にやにや)」

♪ 反響

先日の日記(6月26日)には 女性の方々からたくさんの反響をいただきました。 ありがとうございました。

凹んでいる のこちゃんを気遣ってか、 お叱りのメールは一通もありませんでした。

落ち着いたら、また なにか書かせていただきたいと思います。

♪ 箴言29

メーリングリストから、今朝、
非常にタイムリーなメールが来た。
神様から届けられたみたいな内容で、あせってしまう。
どきどきどき。

以下、全文です。

***************************

箴言29からの抜粋です。

29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。
   彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。

***************************

この訳はとても現代的な響きのする訳になっています。

叱られたり、責め立てられたりしすぎると、人は頑固になります。
叱ることの全部を否定することはできませんが、
それが「過度に」なるとその人の精神状態は不安になり、
いつも人の目を気にしたり、極端に頑固な心をもってしまったり、
閉じこもりぎみになっていきます。
のどかな、のびやかな精神が死んでしまうのです。

「誉められる経験」「存在をそのまま喜ばれる経験」は大変重要です。

失敗をいつもチェックされ、そのたびに厳しく叱られるという経験は
ある目的、たとえば
「歌舞伎役者になる為に修行中、医者になるための研修中」であったり、
「重要案件を取り扱うということのための研修中などの場合」には
ある程度やむをえないのかもしれませんが、
普段の生活の中では、「柔らかさ、おだやかさ」が必要です。

「ネガティブ チェック」(否定的採点法とでもいいましょうか)
という言葉がありますが、こればかりやられたのでは、
生きる気力が生まれません。

子供が日常生活の中でも常に
「懲らしめ」「いじめ」に近いものを味わっていると、
つまり親からの「否定的な採点方法」ばかりで育てられると
大抵、大人の目からみると「よい子」に見える子ができあがります。
しかし、親の前ではよい子なのに、突如として他の子供たちの前では
「陰険な凶暴性」が表面化するようなことが起こったりします。

私たちは多くの場合、
自分に甘く、人には厳しいものです。

今日は、その厳しさをちょっとだけ、自重して、
あなたの身近な人たちに
「いてくれてありがとう。」
という心をもって接してみたらいかがでしょうか。

「いてくれてありがとう」
って言えればそれはもう、最高なんでしょうけど。


以上、7日分です。
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のこちゃん