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ま日記

─── 1999年07月中旬 ───
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1999年7月10日 (土)

♪ こんな物語を読んだ

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『神への告発』

神の御座の前に何万という人々が集まっていた。 その集団の前のほうにいた人々は、 怒りにも似た強い語調で叫び声をあげた。

「神に俺達をさばく権利が本当にあるのか? 神に俺達の苦しみなどわかるものか」

彼らはシャツをたくし上げ、ナチスの収容所で受けた傷と、 入れ墨でかかれた囚人番号を見せた。

「俺達は殴られたり、迫害されたり、虐待されたりして、 死に至る苦しみを受けてきた。」

別の集団の黒人たちが襟を開いて

「これを見てくれ」 と叫んだ。 黒人であるというだけでリンチに遭い、 縛り首にされたというロープの跡があった。

「俺達は、奴隷として苦しみを受けてきた。 愛する家族と離れ離れにされ、死が安らぎをもたらすまで、 苦役と重労働に服さなければならなかった。」

広場には地上で苦しみを味わった人たちの何百というグループが群がっていた。 そしてそれぞれ神に対して

「なぜ、地上であんな苦しみに遭わせたのか」

と口々に責め立てていた。

「神様なんて楽なものだよ、光と麗しさに満ちた天国に住んでさ、 どこにも涙や飢え、それに危険だってありゃしないのだから。」

「実際、神に地上の人間が受けている苦しみや痛みがわかるのだろうか。」

そこで彼らは、それぞれに地上でもっとも苦しく つらい経験を味わった人たちをリーダーに選んで、告発会議を開いた。 そこにはユダヤ人、黒人、インドの最下層の人、広島、長崎の人、 そしてシベリヤの収容所に入れらた人などがリーダーとして選ばれてきた。 彼らは会議を開き、次のような結論に達した。

●決議文

神がわれわれ人間に対する裁き主、また主となるためには、 神御自身が人間の味わった苦しみを、 しかももっとも厳しい苦しみさえも経験しなければならない。

具体的には:

神は人間として地上に住むべきだ。 しかもその全能の力を用いて自分を苦しみから守る事がないように 約束を取り付けるべきだ。 ユダヤ人として生まれるようにしよう。 彼の誕生に疑いがかけられるような方法で 生まれさせ、誰が彼の父親なのかわからないようにしよう。 彼を正義と真理のチャンピオンとして、 世の人々からねたみや憎しみを受けさせ、 既成の宗教家達からもののしられるようにしよう。 彼に、人間が見た事も聴いた事もない事柄を教える立場を与え、 神を人間に紹介する役目をあたえよう。 最愛の人から裏切られる経験をさせよう。 無実の罪で捕らえられるようしむけ、 しかも偏見に満ちた陪審員の前で臆病な裁判官によって裁判を行わせよう。 一人ぼっちで取り残され、 人々にまったく捨てられるというつらさを味あわせよう。 拷問を受けさせよう。 そして殺されるようにしむけよう。 しかももっとも辛く苦しい十字架で…・。

リーダーが決定した この告発決議文が読み上げられたとき、 そこにいた何万という人々の中にざわめきと納得の声があがった。 しかし、ほんの数分後に沈黙が始り、その静寂は長く続いた。 誰も声をあげず、だれも動こうともしなかった。 そこにいたすべての人々が気がついたのだ、 神がすでにこの決議文をずっと前に実行しておられたという事を。

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♪ うひょー

はちこさんが、ご自分のホームページの中で この「きまたま日記」をリンクしてくださるといっていたので、 少々楽しみにしていたのだけど、 さっきあちらにアクセスしてみてびっくりした。

ほ、ほ、ほめちぎってあるぅ~

るるん。さっそくダーリンにも報告してこなくっちゃ。

♪ 2語文

倫太郎は、ここにきてようやく2語文をマスターしたみたい。 今まで別々に使ってた名詞と動詞を くっつけて使うようになっただけなのに、 ぐんと語彙が増えたような気がしてくる。

いちばん頻繁に話すのは、

「ぎうにう、のむ(牛乳を飲みたい)」 「ごあん、あぺう(ご飯を食べたい)」

かな。 やっぱり、なにを差し置いても飲食のことだけは、 保護者にうまく伝えられないと困ってしまうものね。
で、その次がたぶん

「あっちぃへ、いく(あっちへ行こうよ)」。

私たちがパソコンに向かってたりすると、ときどき 倫太郎がこう言って、子供部屋の方へと誘ってくることがあるんだよね。 で、こちらが仕方なく立ちあがると、それはそれは嬉しそうに、

「ふぁいと、ふぁいと、ふぁいと、ふぁいと・・・」

って掛け声かけて、先頭に立ってランニングしながら行ってしまうの。 どこであんなの覚えたんだろう。

「パパ、きょうかい、いっちゃった?」

のように、3つ以上の単語をつなげて話すのは、 倫太郎にとってはチャレンジングなことみたいで、 そういう時は、そのフレーズを口にする前に、 一瞬だけ自分の頭の中で確かめているみたいなんだよね。 いったい、なにを確かめてるんだろうと思うんだけど・・・ もしかすると、語順なのかな? という感じ。

さっきも、ご飯を食べようとした時に、 倫太郎が何かを言おうとしてそういう表情になったんだけど、 そばで見てたら、妙にかわいくて吹き出してしまった。 なんか突然、じぃーーーーっと動かなくなったと思ったら、 口元がとんがってきて、目が泳ぎはじめたんだもん。

あんな顔しなきゃ、考え付かないのかなぁ。

♪ うるうる

今日のダーリンは、ものすごーーく頑張っていた。

朝からバスタブを磨いて お湯をためたり、 お風呂あがりの倫太郎に服を着せたり、 燃えないゴミと資源ゴミを回収に出すために、 大量の袋を持って マンションの階段を4往復くらいしたり、 布団を干したり、 倫太郎が おんもに行きたいと言うので、 街道沿いの「紳士服の青山」まで 子連れで用事を済ませに行ったり、 その帰りにシャツとズボンをクリーニングを出したり・・・。

そして、やっと家に着いて、 つかの間のおひるねをしてから、 今度は打ち合わせのため教会へでかけていった。 もう少し時間があったら、 近所の八百屋へおつかいに行かねばならないところだった。

ダーリンの献身的な働きのおかげで、 今日も、のこちゃんは雑事から解放されて のびのび過ごすことができた。 もともと、あんまり家事が得意ではない彼の性質を思うと、 正直言って、感謝感激雨あられである。

ダーリンが教会へ出かけていってからしばらくしたら、 ふいになにを思いついたのか、 倫太郎が押し入れを開けて、ごそごそ入っていった。 そして、奥から掃除機の頭のところだけを取り出して来て、

「ぶーーーん ぶーーーん」
「どいて~ どいて~」

などと言いながら じゅうたんをせっせとこすりはじめた。 どうやら、 床に散らばっているおもちゃたちに話しかけながら、 掃除機をかけてくれているらしい。

ひょっとしたら、パパの真似をしているのかも・・・ なんだか、倫太郎からもいたわられているみたいで、 うるうるしてしまった。


1999年7月11日 (日)

♪ 手作りパン

最近はまっているのが 朝のパン作り。 といっても、たいていは、 前日の夕方にホームベーカリーを使って材料をこね、 一次発酵まですませてしまうのだけれど。

はじめは、そのホームベーカリーのマニュアルにあった バターロールの生地を応用して、 シナモンロールやらハムチーズパンやら、 いろいろなおかずパンを作っていたのだけど、 そろそろ飽きてきたし、 コンスタントに上手く作れるようにもなってきたので、 別の生地にチャレンジすることにした。

で、今朝焼いたのは、これ。↓

普通のパン生地に比べると、卵や牛乳などの割合が高いので、 かなりやわらかい感じにこねあがる。 ブリオッシュのような口当たり。 あっさりしているので、 バターかメープルシロップをつけて食べると美味しい。

♪ 聖書の学び メモ1

● ヨハネの告げた福音とはなにか

バプテスマのヨハネによって、キリストは主であり、 私たちの考えを遥かに超えた存在であることが教えられた。 実際に人を作り変える力のある存在として、 神ご自身が人間を見るように、 キリストも私たちを見ると教えているのである。 この方に希望を託すこと、それがヨハネの語った福音だった。

  1. 人からの評価の後に
    民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、 ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、 と考えていたので(ルカ 3:15)

    人は、褒めてみるとその人の本性がわかるといわれる。 つまり、褒められてその気になってどんどん生意気になる人と、 誉められても前とかわらず、誠実に自分の役割をこなして行く人と。
    ヨハネは後者であった。 明確に自分の役割を自覚し、自分がキリストではないことを証ししていく。

    使徒の働きの12章には、 自分は神かもしれないと高慢になったヘロデ王が、 悲惨な死に方をしたことが書かれている。 このヘロデは、ヨハネを殺したヘロデではないが、 クリスチャンを迫害しヤコブを殺した王であった。 自分の身のほどをしらない人間として記録されている。

    定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、 彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、 「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。 ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。 彼は虫にかまれて息が絶えた。 (使徒行伝 12:21-23)

    イエス様はしもべのあり方についてこう教えた。

    あなたがたもそのとおりです。 自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、 『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』 と言いなさい。(ルカ 17:10)
  2. ヨハネのキリスト理解 1)靴のひもを解く値うちもない
    私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。 (ルカ 3:16)

    ヨハネはキリストとの関係について、このように告白している。 靴の紐を解く・・・つまり、お客様のサンダルの紐を解き、 入り口のところで足を洗う作業は、当時の奴隷の日常的な仕事であったが、 ヨハネは、 「私はキリストの奴隷としてさえ、その役割を担えるかどうかわからない」 という謙遜な意志表示をしている。

    キリストとの力関係、役割の関係について言えば、 「私とは次元が違う存在」として理解していることが分かる。

    ・私たちへの摘要

    ★ だれでもみな平等、だれでもみな同じという発想の中で育った現代人は、 このようなとらえ方が苦手。 キリストとの関係を「靴の紐を解く値打ちもない」とは考えにくい。
    ★「私は、キリスト教界の中では大したものだ」という心は、 実に簡単に私たちの心に入りこみやすい。しかし、 これはヘロデ王の心と似ている。
    ★ヨハネのキリストに対する距離感は、 礼拝者としてふさわしいものである。

    2)聖霊と火をもってバプテスマをほどこされる方

    「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。 しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。 その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、 殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ 3:16-17)

    ヨハネは、キリストは信じる私たちの心に聖霊をお与えになり、 そのお方が私たちの心を満たす、 そのお方が私たちの心にあふれるような生き方をさせてくださるのだ、 と語った。それがキリストによる『聖霊と火とのバプテスマ』である。 そしてそれは、いわゆる儀式的な水のバプテスマとは本質的に違う、 もっと内容の豊かなものであり、 現実的に心を取り扱うものである、と教えている。

    ・私たちへの摘要

    ★ イエスキリストは、私たちの心を聖霊で満たそうとしておられる。 みことばを心に留め、キリストを主と礼拝し、謙遜に歩もうとする者に、 聖霊を注いで下さり、確かに心の中に不思議な働きを実行してくださる。
    ★ 礼拝したい心も、聖書を求める心も、聖書を理解できる力も知恵も、 聖霊によってもたらされるキリストからの恵みである。 悔い改めも、奉仕も同様。 自分の力や頑張りではないことを理解する必要がある。
    ★ 福音とは、このキリストに希望を託すことを教えるメッセージ。 自分の力でがんばらせるメッセージは、一見福音のように感じるが、 実は、不公平な、「出来る人への知らせ」であって、 弱いものへの良い知らせではない。

  3. ヨハネの投獄 (詳しくは、マルコ 6:14-29参照)
さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、 また、自分の行なった悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。 (ルカ 3:19-20)

罪のもたらす問題の深刻さを知っていたヨハネは、 王であれ兵士であれ一般人であれ、 神の前にふさわしくない罪を悔い改めるべきことを、 真剣に、本気で語りつづけた。 キリストを指し示す役割を担ったヨハネの姿勢は、 一貫して「悔い改めを促す」ものであった。

・私たちへの摘要

★ 罪と戦うという姿勢。罪から離れるという姿勢。 罪を憎み、清さを愛するという姿勢。 聖書はこういうヨハネのような生き方を推薦している。

★ 赦しも、癒しもあるのだからこそ、 悔い改めて姿勢を正すことが大事になってくる。 ヘロデのように、その声をシャットアウトし、 無視することは大きな過ちである。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、 私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。 それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られた この勧めを忘れています。 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。 主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、 受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 (ヘブル 12:1--6)
♪ 結婚式の思い出

あのね。

私の結婚式のとき、母がブライダルブーケを作ってくれたんだけど、 式が終わった時に、それを独身の友達に渡したのね。 そしたら、

「次は私かなあ」

なんて言いながら、ちょっと嬉しそうにはにかんで受け取ってくれたの。

私たちはそのまま教会の近くのホテルに泊まって、 翌日からシンガポールへ新婚旅行に出かけたんだけど、 1週間後に帰国して 教会に行ったら、 その子が私に結婚祝のプレゼントを用意してくれてたんだよね。

「ちっちゃいし、開けてみたら『これなに?』って思うかもしれないけど、 ・・・びっくりしないでね」

っていう彼女の言葉どおり、 手のひらにおさまっちゃうくらいの大きさの、 可愛らしい感じの包みだったの。

(何だろう・・・?)
なんて考えながら家に帰って、 それからふたりで開けてみたら、中から、 綺麗な押し花のはいった小さい写真立てが出てきたんだけど、 よーく見たらそれ、 私があげたブライダルブーケの中に入ってたカスミソウを乾かして、 蒼いリボンで結んで、わざわざ花束にしたものだったの。

『頂いたブーケをお部屋に飾ろうと思って
ドライフラワーにしたのですが、
自分ひとりで楽しむには もったいない気がしてきました。
記念に、のりちゃんにも差し上げますね・・・
ご結婚本当におめでとう」

って書かれた手紙が一緒に入ってて、 そのときはじめて、なんだか泣けてきちゃった。 だって・・・そんなことするの、 ちっとも得意じゃなかったんだもの、彼女。 保育園の保母さんなのに、壁面構成とか工作とかお絵描きとかが苦手で、 ものすごく悩んでたりしてたの、よく知ってたんだもん。 それなのに、その小さいブーケは、 「美しい」としか言いようのないできばえで・・・。

私って、本当に、いろんな人から愛されてるんだなあって思ったんだよ。


1999年7月13日 (火)

♪ 駄目な人たち

聖書の中には、(立派な信仰を持っているなあ)と 感心させられるような人が たくさんでてくるよね。

今までは、そういう人にすぐ目が行ってたの。 だってさ、かっこいいんだもん。 みんなも、(私もこうなれたらいいなあ)とか (こんな風にぴしっと決めゼリフを言ってみたいものだ) とか思うことない? 私はよくあるのね。

でもねー、 なんか最近、そういうかっこいい人よりも、 駄目な人のほうに目が行くようになっちゃったの。 (あ、私みたいだ)って。なんでかしらねー。 セルフイメージが変わってきてるのかしら。

たとえばさ、ベテスダの池のほとりで、 30何年も癒されるのを待っている人がいるでしょ。 あの人、なんか、やる気ない~って感じじゃない?

「癒されたいか?」

って、イエス様がストレートに尋ねてるのに、

「水が動いても、私をあの中に連れていってくれる人がいないんです。 今までもそうだったんですから、これからも無理にきまってます」

って感じで、いじけてみせたりしてるんだもん。

信仰があるからこそ、この人だって、不自由な体をおして、 こういう癒しの場にでかけてきてたんだろうと思うんだ。 それって、「見上げた信仰」ってほめられてもいいくらいの行動力だよね。 それなのに、長いこと、この人の重い病は治ることがなかった。

だから、もし

「あなたは、今、神様に本気で期待していますか? 癒されることを熱心に求めていますか?」

と この人に尋ねれば、

「うーーーん、もうよく分からない。 だって、今までも私はずーーっとここにいて、 自分なりに努力もしてみたのに、 結局 治んなかったんだもん。 ひょっとすると、治らないのがみこころだったりしてね。ふん」

とかって答えてしまいそうな感じがする。 神様に対して、ある意味で失望しちゃってるような雰囲気なんだよね。

こういう投げやりなところ、私に似てるんだー。すごく。 だから目が行っちゃうの。 そして、(うんうん、分かる分かる、その気持ち)って共感するの。 それから最後に、やっと悔い改めたくなるんだよね。

(私も、いつのまにか、神様に自分を賭けることを忘れてしまっていました) (本気で信じるのをやめてしまっていました) (ただの習慣として、なんとなく礼拝を守っていただけみたいです) (私の心の中にも、この人のような、神様に対する怒りがあります) (だから、私の怒りを知って、取り扱ってください) (自分で探ってみても、私の光は暗く、心は深すぎて、分からないのです)

たとえばこんなふうにね。

♪ かゆい

実は最近、体がかゆくてしょうがないの。 ぼりぼり掻いちゃって、あちこち血が出たりしてるので、 こないだの検診のとき、先生に症状を話したら

「あ、妊娠性掻痒症だね。  市販のかゆみ止めを使ってもいいけど、 出産が終わらないと治らないよ」

ってあっさり言われたのね。

私も雑誌でちょっと読んだことがあったから、 あ、やっぱりそうなのかあって思ったんだ。 でも、家に帰ってからこの話をしたら、 笑われてしまったの。

「このかゆいの、『妊娠性掻痒症』なんだって」

「しょうもないネーミング・・・。  そのまま漢字にしただけじゃん」

うん、そう言われれば、たしかにそうだ。 こんな病名を教えてもらっても、何の解決にもならないよね。

あー、かいかい。


1999年7月14日 (水)

♪ レインボーマンみたい

H兄からこんなメールが来た。↓
最後の3行を読んで、うっかり信じるところだった。

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今日の読売朝刊にこんな本の広告が出てました。 ドイツではベストセラーだそうです。

小説「イエス空白の17年」 波瀾万丈の人間ドラマ
『イエスの若き日』(コリン・デ・シルヴァ著 真野明裕訳)
二見書房 ¥2500

12歳でナザレから消えたイエス・キリストは、
インドで激しい修行を経て、
やがてユダヤの地に救世主として出現した!

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♪ 聖書の学び メモ1

● イエス様の少年時代(ルカ 2:40-52)

ユダヤ人にとっては、「過ぎ越しの祭り」「ペンテコステ」「仮庵の祭り」 はとても大事な祭りで、 そのたびにエルサレムに出かけて行くことになっている。 同時に、今でもある習慣だが、 男の子が13歳になるとバル ミツバ(律法の子)という祭りを行う。 これは、大人として認められる儀式である。 ここは、12歳のイエス様がエルサレムに向かったという場面だが、 その準備もあったのかもしれない。

1)知恵

聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。 (ルカ 2:47)

知恵という言葉が多用されているが、ここでは、 「人間的な知恵」というより 「上からの知恵・神様の知恵」という意味で使われていると思われる。

上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、 また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、 見せかけのないものです。(ヤコブ 3:17)

こういう知恵で対応していたからこそ、 イエス様が真中にいて学者たちが取り囲み、話が出来たのだと思われる。 また、

幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。(ルカ 2:40)
イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり・・・(ルカ 2:52)

とあるが、このような知恵は、遺伝によるものというより、 イエス様の独特な父なる神との関係の中で与えられたものと考えられる。

イエス様の生活の中には、最初から主を恐れ、 畏敬する心が教えられていた。 両親は熱心に律法を守ったが、イエス様ご自身も、その姿勢を大切にしていた。

神の恵みの中に身をおいて生きていると、かならず、 ある意味で「知恵」が深くなる。 人間的な常識人になるという意味ではなく、神の真理について、 神が何を喜ばれ、何を悲しまれるのかという点について敏感になり、 そういう面で知恵が深くなる。 もちろん、これは聖霊の助けによるものでもある。

主を恐れることは、知恵の初め。 これを行なう人はみな、良い明察を得る。 主の誉れは永遠に堅く立つ。(詩 111:10)

「使徒の働き」の中には「知恵と聖霊に満ちた人」という記述があるが、 聖霊による知恵だからこそ、 反論できないほどの説得力を持っていたのだろう。

2)私の父の家

両親は彼を見て驚き、母は言った。 「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。 父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」 するとイエスは両親に言われた。 「どうしてわたしをお捜しになったのですか。 わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 (ルカ 2:48-49)

神に対して「私の父」と呼べるのはイエス様だけの特権である。 ある意味で、そういう言葉を発言すること自体、 神への冒涜と取られる恐れがあった。

しかし、イエス様はその人生における最初の発言から、 会堂を自分の父の家と規定し、ご自身を神の御子と位置付けている。 そのことを最初から自覚しているということは大事なことであった。 つまり、イエス様は、その人生の途中から宗教心に目覚め、 キリストとしての役割を果たそうとがんばった御方ではないのである。 聖書によれば、最初からこの方こそキリストであり、 最初から「御子」としての自覚を持っておられたと教えるのである。

・私たちへの摘要

★ イエス様を信頼する私たちもまた、 神の子どもとしての特権を与えられている。 イエス様が「私の天の父」と呼ばれた方を、 私たちも「私たちの天の父」と呼ぶことができ、 その方との関わりを深めながら生きることができるのである。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、 神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、 ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ 1:12-13)

3)神と人とに愛された

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、 両親に仕えられた。・・・イエスはますます知恵が進み、 背たけも大きくなり、神と人とに愛された。 (ルカ 2:51-52)

イエス様は決して、殿様のような生活をなさらなかった。 むしろ、人に仕えること、両親に仕えることを熱心になさった。 神と人とに愛される生き方を実行されたのである。

・私たちへの摘要

★ クリスチャンは、その人格や性格また勤勉さ、誠実さにおいて、 人から軽蔑されるべきではない。その分野における軽蔑は、 クリスチャンとしての迫害とは意味が違う。

★ クリスチャンが迫害を受けるのは、その信仰的な純粋さ、 他の神に頭を下げない、信仰姿勢の一貫性のゆえであって、 決して人格的な未成熟さのゆえではない。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、 また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、 平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役つこととを追い求めましょう。 (ローマ 14:18-19)
私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。 自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、 その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(ローマ 15:1-2)

誠実な礼拝者として神を畏れながら、知恵をいただこう。 そして、父なる神様との関わりを深めながら、 神と人とに愛される人間として整えていただこう。 誇るための知恵ではなく、仕えるための知恵を求め、 愛するための知恵を求め、 神と人とを愛していけるよう心から祈り求めよう。


1999年7月15日 (木)

♪ 聖書の学び メモ2

●信仰の原点(ルカ 2:21-40)

キリストに出会えたら、キリストの言葉を心に聞くことが出来、 キリストの温かい手を心に感じられたら、私たちの心は満足する。 問題は、私たちが、本当に教会にそういうものを求めてきているかどうか、 また、教会がそれを本気になって分かち合おうとしているかどうか、 本気で信じているかどうかである。

  1. 律法に従う
    八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、 幼子はイエスという名で呼ばれることになった。 胎内に宿る前に御使いがつけた名である。 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、 両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。 (ルカ 2:21-22)

    割礼という儀式にしても、宮参りという儀式にしても、 両親は律法にもとづいて丁寧に実行している。 ここにも、救い主とその両親の謙遜さがみられる。

    彼らが宮で捧げた奉献物は「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」 であったが、これは、貧しい人たちの捧げものの代表的なもので、 レビ 12:8に記録されている。

    しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、 二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、 もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。 祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。

    彼らがきちんと律法にかなう生き方を実行したこと、これは、 キリストが人間として「律法の下に置かれている」ということの象徴である。 そういう生き方をしてくださったからこそ、贖いに意味が出てくるのである。

    しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、 女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、 私たちが子としての身分を受けるようになるためです。(ガラテヤ 4:4-5)
  2. シメオンの賛歌 シメオンは、『神は必ず救い主をお与えになり、イスラエル(神の民)を救い、 慰めてくださる』と信じて律法を重んじ、神様を愛して生きてきた人だった。 ここでは、救い主を待ち望むシメオンの祈りを神様が聞いて下った、 というような「喜びの賛美」が捧げられている。 老人シメオンと老女アンナが待ち望んでいた神からの希望、旧約時代の約束が、 まさにこの子どもを通して実行されましたということを伝えているのである。 ちなみに、シメオンとは「主は聞かれた」という意味、 アンナとは「恵み」という意味で、これは象徴的な名前である。
    すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、 安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです。 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ 2:28-32)

    シメオンは、このキリストこそイスラエルのみならず、 すべての人の救い主だということを告白しながら、 「もう本望です。望みがかないました。 救い主を見ることが出来たのですから満足です。 もう死んでも良いくらいです。」と賛美している。

    ここに、圧倒的なキリストへの熱情と愛があり、また、 救い主への信頼がある。 ああ、この目が救い主を見た。この目が約束の救いを見た。 シメオンにはそれで充分だったのである。

    ・私たちへの摘要

    ★ 実はここにこそ、私たちのキリスト礼拝の原点がある。

    ★ 賛美の中で、説教の中で、聖餐式を通して、礼拝全体を通して、 私たちはキリストに出会うのである。 すべての人間的な欲求を排除して、「キリストと出会う」のである。 そこにこそ礼拝の集中がなければならない。音楽も説教も祈りも礼典も、 すべてキリストとの出会いを励ますためのものであって、人を喜ばせ、 人の気を引くためのものではないのである。

    ★ 教会における交わりでさえ、 「キリストと出会う」ということが中心であるべきである。 クリスチャンの食事は、キリストを歓迎しキリストを中心にした食事会だが、 会話の真中にキリストを置いているかどうか。 キリストが目に見えないゲストとして食卓に一緒におられることを喜び、 また自覚して会話を進めているかどうか。

    ★ もし、礼拝で聖書解釈的に正しい説教を聞き、 なじみの深い賛美歌を歌ったとしても、説教の中にキリストを感じ、 また集まっているクリスチャンの中に、 キリストのやさしさやキリストの恵み深さを感じることができなければ、 教会はいわばサークル活動と同じになってしまうだろう。また、 そういうことが出来るように真剣に祈りながら他者と対応するのでなければ、 教会の社会における意味はどんどん薄れていくだろう。

    ★ 信仰の原点を確認しよう。イエス様と一緒に生きることができる喜び、 イエス様に会える喜びを心に蓄えながら進んで行こう。すべての教会が、 「キリストに出会える教会」としての機能を果たせるよう祈っていこう。

  3. 苦難の予告
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。 「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、 立ち上がるために定められ、また、 反対を受けるしるしとして定められています。 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。 それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ 2:34-35)

シメオンはマリアに対して、キリストの苦難を予告している。 普通なら、これだけ喜んでいたら、 苦難の予告など出来難い空気になるところだが、 彼はしっかりそのことを予告している。こういう姿勢は、 シメオンが神様のしもべとして生きてきたことの証拠でもある。 現実的な苦難を受け入れ、その中でキリストを信頼しながら生きる事が 大事な前提として示されている。

・私たちへの摘要

★ 私たちが教会の交わりから外に出ると、そこには悲惨さや悲しみ、 苦しみが満ちている。それが現実であり、それを否定したり、 そこに戻ることを拒否してしまってはいけないのである。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、 迫害を受けます。(第2テモテ 3:12)
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、 キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ 1:29)
♪ 眠る前のすいーとな会話

りんちゃん、かわいいねー。

かぁいい?・・・♪

うん、りんちゃんはとってもかわいいよー。

だいじだいじ?

うん、りんちゃんは大事大事。

ほんとーい?

うん、本当に本当に、大事大事。

・・・♪♪♪

♪ おやつ

なんだか急に甘いものが食べたくなって、2時ごろからせっせとお菓子作り。 簡単なものだけど、一応、レシピを紹介しておくね。

★ふるふるヨーグルトゼリー

粉ゼラチンを熱湯で溶かしたところへ、ヨーグルトと缶詰の液を入れ、 ダマをつぶしながらよく混ぜ合わせる。器にフルーツを敷いて、 ゼリー液をざるなどでこしながら流しいれ、冷蔵庫で固める。

★プレーンスコーン&ハーブスコーン

冷たいバターを1センチ角くらいに切り、 指でつぶすようにしながら、手早くホットケーキミックスにもみ込む。 全体がさらさらになったら牛乳と卵を加えて混ぜてまとめ、 さらに、その半量に、刻んだハーブティの葉を加える。 各生地をラップで包んで、冷蔵庫で30分~1時間ほど寝かせたら、 適当な大きさ(4・5個)に手で丸め、 180度~200度くらいのオーブンで12分~15分くらい焼く。

♪ 仕事にならん!

今日は朝からものすごい蒸暑さで、 正直言ってなーーんにもやる気が起こらない。
お祈りしながら うとうと・・・
本を読みながら うとうと・・・
トイレにこもって うとうと・・・
あああ、もうだめ~!

ということで、とうとうお昼ご飯までパスして、 午前から午後にかけて3回も居眠りしてしまいました。 なんだか南国の人になった気分。逆に、夜は不眠気味なのになあ。

3度目の居眠りの真っ最中、 ひとり遊びに飽きたらしい倫太郎が ついにそばへやってきて、

「ママーーー。おっき」

と 腕をつかんでゆさゆさ。ううう、おっきしたくないよう。

「ねんね、しゅる、の」

と倫太郎の物まねをしながらごねていると、ご機嫌を取っているつもりなのか、 突然、ちゅぱーーーーっ、ちゅぱーーーーっ、とチューの嵐。 私、いつもそんな起こし方してるっけ? 

・・・しかし、なんだか猛烈におとなっぽく正面から迫ってくるので 恐くなってしまい、

「チューは ほっぺにしてね」

と頼むと、

「くちが、いいのぉーーー!」

と泣かれてしまう。別に泣くことないでしょ。

しぶしぶ起きてみたものの、間の悪いときに起こされた感じで、 すっごい やーな気分。^^;; 頭いたーい。

その後も全然目が覚めないので、ビデオを見たり、パソコンに向かったり、 だらだら×∞ と日が暮れるまで無為な時間を過ごす。やがて、 変な時間におなかが減って、倫太郎とふたりでバナナをはんぶんこ。 続いてトロピカルフルーツ入りのゼリーをぱくぱく。とどめに

「お風呂入る?」

と倫太郎に尋ねると、

「はいう! はいう! じゃじゃじゃーーーーって しゅる!」

と駆け寄ってきたので、とうとう裸になって行水。

うむむ、ますます南国の人。?


1999年7月19日 (月)

♪ 聖書の学び メモ1(ルカ 4:1~)

● 悪魔の誘惑

イエス様が公けの宣教活動を開始される前に通過しなければならなかった、 重大な出来事。それが、この個所に記されている悪魔からの誘惑である。 これらを通過することは、イエス様にとって、 救い主としての必須事項であった。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、 主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。 それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、 試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 (へブル 2:17-18)
  1. 石をパンに:現実主義的な誘惑
    悪魔はイエスに言った。 「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」 (ルカ 4:3)

    40日間の断食のあとの、イエス様への最初の誘惑は、このようなものであった。 これは、
    「とりあえずの必要物を、あなたの不思議な力で提供してごらんなさい。 そうすれば、あなたが神の子であるということが証明されるでしょう。」
    という呼びかけである。

    まず、私たちは、悪魔からの質問や呼びかけに対して 〝正直に答える〟ことの不自然さを知っておかなければならない。 もし、悪魔からの呼びかけに対して、
    「それじゃやってみましょうか。」
    と言って事をおこすなら、 それは悪魔の命令にしたがったことになるわけだから、 それ自体、ある意味での負けを意味するのである。

    「人はパンだけで生きるのだ。 現実的な、目に見える必要物さえ手に入れば満足できるのだ」
    と訴える悪魔に対し、イエス様は断固としてお答えになった。

    「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」(ルカ 4:4)

    このとき、『神の口から出るひとつひとつのことばによる。』 という、みことばの続きの部分は省略されている。イエス様は、 〝人は、その場その場の必要が満たされれば十分なのだ〟ということよりも、 もっとほかに大事なことがある、ということを教えたかったのである。 (この〝大事なこと〟については、以降に学ぶ)

    ・私たちへの摘要

    ★ 私たちが、目先の必要物にばかり目を向けてしまうとき、 実は、悪魔の誘いに乗ってしまっているのである。

    ★ パンを提供するのは大切なことだが、 「人を助けたい」「人に対して援助をしたい」と考えるとき、単純に、 パンだけを提供すればそれで十分だと考えるなら、 それは「聖書の救い」の提供とは違っている。 人はパンだけで生きるのではない。 このことを心に留めよう。

  2. 私を拝めばこれらの栄華を:繁栄主義的な誘惑
    また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言った。 「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。 それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」 (ルカ 4:5-7)

    次なる悪魔の誘惑は、繁栄・権力・栄光へのいざないである。
    「これらのものが欲しければ、私を拝めば良いのです。」
    という〝ご利益信仰的な繁栄主義〟への誘惑である。 (もちろん、悪魔が持っているのは本物の繁栄ではないのだが。)

    しかし、ここにイエス様の痛烈な批判が見られる。 人物や物・銅像などを礼拝することで栄光を手に入れるという、 聖書がまったく認めていない姿勢に対する批判である。

    イエスは答えて言われた。 「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」 (ルカ 4:8)

    ・私たちへの摘要

    ★ 「とにかく有名になりたい。とにかく栄華を極めたい。 方法なんてどうでもいいから。」 というような空気が、個人の中にも教会の中にも入り込んではいないだろうか。 人間的な名誉心をくすぐり、献金を強力にアピールし、 教会のヒーローにしてしまうというようなことは行われていないだろうか。 それらのことは、実は、この誘惑の中に隠されている下心と似ているのである。

    ★ イエス様は、私たちが集中すべき対象は〝神〟であるべきだと教えた。 礼拝を受けるべきは、主なる神のみなのである。 人への好ましい評価や賞賛が悪いわけではないが、 神と対等な聖人に仕立ててしまうのは論外である。

  3. 飛び降りてごらんなさい。:難行、苦行、いのちを粗末にという誘惑
    悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。 「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、 あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」 するとイエスは答えて言われた。 「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」 (ルカ 4:9-12)

    最後に、高い塔から飛び降りてみろという、 とんでもなく突飛な要求が出されているが、 この悪魔の誘惑は、実は、人間の競争心や虚栄心をくすぐるものである。

    信仰者には、 (もし私が自殺行為に出たとしても、神はきっと自分を守ってくれるのでは) というような思いを試してみたい気持ちがあるのである。 しかし、これは〝神を試みる〟ことであって、 自分の都合に合わせて神様を操作したいということと同じなのである。 人が勝手に無鉄砲な行為にでて、
    「信仰があるのなら、そういうことをしても大丈夫のはずだ」
    と言いながら神を〝試す〟ことについて、イエス様は
    「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」
    ときっぱり言い放ったのである。

    ・私たちへの摘要

    ★ これは神のためにやっているのだから、多少いのちを粗末にしても大丈夫、 というような風潮は決して健全ではない。

    ★ 能力的に見た場合、もしかすると私たちクリスチャンは、 普通の人よりももっと普通で平凡なことしかできないかもしれない。 しかし、それが問題になることは決してない。 クリスチャンとして生きるというのは、 「神の力によって忍者やマジシャンのように生きる」のとは違うのである。

    ★ 神が私たちの思い通りに答えてくれないからといって、 腹を立ててしまってはいけない。 私たちの思いどおりにしてくれても、してくれなくても、 神の主権を信じることが大事なのである。 神の思いは、必ずしも私たちの計画とは一致しないということも 覚えておくべきである。

  4. 総括 もし私たちが、人はパンだけ与えられれば十分満足できるのだと考え、 礼拝の対象は神だけではなく、 最終判断の基準は神とのやりとりだけではないと教え、 人の命は宗教の名において粗末にしてよいのだ、 神様に愛されているかどうかは、 そのサバイバル能力によって区別されるというようなことを教えはじめたら、 教会はまったく本来の役割を果たせなくなってしまう。 それは、危険な新興宗教と同じになり、 聖書の教えとはまったく内容の違う宗教団体に成り下がるのである。
    • 人はパンだけで生きるのではない
    • 神にのみ仕え、神をのみ礼拝する
    • 神を試みてはならない

    この教えは、 くつがえしたら致命的なダメージを受けるに十分な重さを持っている。 従って、教会としても個人としても、もう一度吟味したいものである。

    悪魔の誘惑はそれほど単純ではないし、 そんなに簡単に勝利できるものでもない。 ルカ4章の最初の部分には、「聖霊によって」という言葉がでてくるが、 これらの誘惑に勝利するためには、絶対的に聖霊の助けが必要なのである。

    イエス様がみことばによって勝利されたように、 心にみことばを蓄えることは大事である。
    パウロはこのように書いている。

    私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、 この暗やみの世界の支配者たち、また、 天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、 堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、 胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。 それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、 神のことばを受け取りなさい。(エペソ 6:12-17)
♪ 聖書の学び メモ1 (ルカ 3:21~38)

● 友なる 救い主イエス

  1. イエス様のバプテスマ イエス様には、ヨハネからの「罪の悔い改めの洗礼」を受ける必要はなかった。 悔い改めるべき罪がなかったからである。 しかし、イエス様があえて洗礼を受けられたのはなぜだったのだろうか。
    さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、 ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、 あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 ところが、イエスは答えて言われた。 「今はそうさせてもらいたい。 このようにして、すべての正しいことを実行するのは、 わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。 すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、 自分の上に来られるのをご覧になった。 また、天からこう告げる声が聞こえた。 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ 3:13-17)

    イエス様は、洗礼を「正しいこと」「神様の目にかなうもの」 と理解しておられた。つまり、イエス様ご自身には罪はなかったものの、 「人間としてふさわしいもの」「人間としての共通の土台の上に立つ」ために、 洗礼は重要なことだったのである。

    ---

    ところで、日本には、普通に考えるととても不思議な 「皇族」という存在がある。 戦後、天皇陛下は「人間宣言」をされているのだが、それでもなお、 基本的人権はお持ちではないのである。

    「私も人間だ」と宣言していながら、選挙権もなく、戸籍もなく、田舎もなく、 親戚付き合いも自由にできず、買い物すらできないとなると、 これはちっとも「平等」ではないし、「自由」でもないし、 むしろ「不自然」であり、「理不尽」であるといえよう。

    彼らだって人間でしかないはずなのだが、おそらく、いろいろなことで、 下に降りてくることが出来ないのだろう。そのような意味では、気の毒である。

    ---

    イエス様は、聖書によれば「神のひとり子」なので、 もともとの所属が私たちとは違っている。 にもかかわらず、人としてこの世の中にやってこられ、貧しさを共有し、 ここで「洗礼」を共有されている。つまり、 「罪ある人間と何にも変わらない存在」としてご自分を提示しているのである。

    イエス様の洗礼は、文字通りの「人間宣言」であり、 神としての特権のすべてを捨てる行為でもあった。 人間が経験する苦労は自分も一緒にしていくという姿勢、 人間の悲しみや痛みはそのまま経験していくという姿勢、 悔い改める必要があるならいつでも正直に悔い改めようという姿勢、 それがこの洗礼に表明されているのである。

    そして、聖霊と不思議な声によってそれらが承認され、 神様に喜ばれることとして理解されている。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

    ・私たちへの摘要

    何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、 互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。 それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、 神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、 仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、 実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、 すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ 2:3-9)
  2. 系図
    教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、 人々からヨセフの子と思われていた。
    このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、マタテの子、レビの子、 メルキの子、・・・ダビデの子、エッサイの子、・・・イサクの子、 アブラハムの子、・・・セツの子、アダムの子、 このアダムは神の子である。(ルカ 3:33-38)

    マタイの系図では、 キリストは信仰の父アブラハムの流れの中に生まれるのだということと、 キリストはダビデ王の流れの中に生まれるのだということが視野にあった。 キリストは信仰的に正当なお方であり、 しかも王権を持っておられるのだということを はっきり教えたかったのだろう。

    しかし、このルカの系図は、最後の所がアダムまでさかのぼり、 アダムは神の子であるという言葉で締めくくられている。 これは、「洗礼を受けて人間宣言をなさったキリストは、 すべての人間の救い主として存在している」 ということを表しているのである。

    アブラハムまでではない、ユダヤ人だけではない、 神様によって創られたすべての人間に対する 救い主としての役割を担うお方なのだ、という宣言でもあるといえる。

    ・私たちへの摘要

    ★ キリストは、 すべての人間のための救い主としてこの世においでになった。 キリストの福音は、あなたの救いを含んでおり、 あなたの救いのためにこそキリストは来てくださったのである。

    ★ 遠くに住んでいる友達が、心配して掛けつけてくれるとしたら、 とてもうれしいことである、しかし、キリストはまさに、 あなたの為に私の為に、それをしてくださったのである。 それを喜べるだろうか?

    ★ 人間的な不幸や悲しみ、痛みを、いろいろな意味で経験されたキリスト。 だからこそ、キリストはすべての人たちの救い主として、重荷を担い、 罪を赦し解放を与えることができるのである。

    すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (マタイ 11:28~30)

以上、6日分です。
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のこちゃん