ふたりっきりで一日中/理性/2割は賜物だけど、あとは・・・
仕事で忙しいらしいダーリンが ちっともこの日記をデビューさせてくれないの で、すっかりやる気が失せてしまって、しばらくほったらかしにしていた。やっ ぱこういうのって、舞台なんかと一緒で、「いついつ人前に出る」みたいな具体 的な目標がないと、あんまり長続きしないのよね。
あー それにしても今日は疲れた。 実は、先週の土曜日から、切迫早産で自宅安静の身なんだけど、家の中に倫太郎 とこもりっきりになっていると、それはそれで 結構 精神的にこたえる、という ことに気づいたんだよね。 「ここに、たとえ ただ寝ているだけの新生児であっても、 ひとりいてくれたら きっとなにか違うのでは」 とか ふと思ってしまう。もちろん、だからといって、今 お腹の子どもに産まれ てこられても困ってしまうのだけど〜。
もともと、「ふたりっきりで一日中」っていうシチュエーションて、訳もなく煮 詰まっちゃうからニガテなんだよなあ。でも、こういうのって誰でもそうらし い。どこかで聞いた話だけど、分別のある いい大人であっても、「南極観測所 にふたりっきり」みたいな状況におかれると、だんだんおかしくなってくるらし いのだ。で、なんとか理性を保とうとしているところに 「ヘリコプター故障のため、そちらへの救援物資送付予定は 1週間伸ばされま した」 なんていう情報が入ってくると、いっぺんにパニックになってしまうとか。
あ、こんなこと書くと、またダーリンに 「のこちゃんて ネガティブだからー」 とか言われてしまいそう・・・^^;;;
でも、「理性」と言えば・・・ 子育てするようになってから、本当に その理性が働くようになったよなあ。こ んなに自分の感情をコントロールしながら生きてるのって 過去30年の生涯の中 でもなかったもんねー。我ながら、ときどき感心してしまう。これが親になるっ ていうことなんだろうか、なんて。
今までは私、基本的に、 「私のこと、分かってくれてもくれなくてもいいのよ 別に」 みたいな態度で 投げやりに生きてきた気がするんだよね。たぶん、クリスチャ ンになってもそうだったと思う。でも。結婚してみたら、すごくよく分かった の。それでは絶対にうまくやっていけない・・・というか、そういう態度では 家族みんなで幸せになっていくことはできないんだ、ということが。
ま、自分で分かったというより、いろいろなことを通して、ダーリンと神様から 根気よく教えてもらったのね。ここにいちいち書けないんだけど。
あ、ちょっと話がそれたかな。
いいや、ついでに もう少しそらしてしまおう。 少し前に、教会で「賜物」が話題になったことがあったの。4月頃だったかな。 「賜物」・・・平たく言えば、「才能」みたいなものね。クリスチャンの人な ら、聞いたことある言葉だと思うけど。で、そのときの話の中に、「賜物」と自 分の中の「情熱」と「奉仕」がうまく一致するのが理想的ですね、というような 結論があったのだった。
でも、教会での奉仕のほとんどは、いわゆる雑用なのね。つまり、必ずしも自分 の賜物や興味関心とは一致していないけれど、とりあえずそれは横に置いといて も、誰かがこなさなくちゃいけない、という性質のもの。そのことも話題にのぼ っていたっけ。
私にとっては、子育てがまさにそんな感じのお仕事なんだなあ。才能と情熱を生 かしてやっている部分は 全体の2割くらいで、あとの8割は やりたくないけど 理性と責任感でこなしている、といった感じ。それでも、やっていて やはり充 実感があるのは、どうしてなのかなあ? なんて思ったりする。
うむ。もしかすると、子どもや夫から、自分が愛している以上に愛されている、 という実感があるからかなのかなあ。(自問自答)。だとすれば、なんか、教会 での奉仕と似てるわね。
御霊に満たされなさい
●御霊に満たされなさい。(エペソ人への手紙5:18)
〔神がこのように命令されているということは、 つまり、これは神のみこころだということです。〕
−−−−−
先日、上記のようなメッセージに出会って、 目からウロコの心境になったのこちゃん。
(御霊に満たされること自体が「みこころ」だったなんて。 そうか、そうだったのか。 とすると、私は今まで、神様に対して、 天にあるものではなくて、地にあるもの(目に見えるもの)ばかりを くださるように求めていたんじゃないかなあ・・・。 あー 私っておばか。まさに肉の人。 すっごくズレてたんだわ。 祈りの答えが聖書に書いてある、っていうのは本当だったのね)
反省することしきり。
−−−−−
今日になって、こんなみことばを発見。 (もちろん、こういう箇所があるって知ってはいたけど)
●わたしには、あなたがたの知らない食物があります。(ヨハネ4:32)
●わたしを遣わした方のみこころを行ない、 そのみわざを成し遂げることが、私の食物です。(ヨハネ4:34)
このイエス様の言葉をちょっと言い換えてみると 私にもぴったりくる気がする。
「私には、秘密の食物があります。 私を造られた神様の霊に満たされること、 ・・・それが私を本当に生かす食物なのです。」
なんだ私、はらぺこだったんじゃない・・・
−−−−−
愛する神様、私はあなたを必要としています。 私は今まで、自己中心的な願いと祈りとをもって 御前に生きてきました。 それは、あなたに対する大きな罪であることに 気がつきませんでした。
私の罪をお赦しください。 イエス様が十字架にかかって死んでくださり、 私の罪を赦してくださったことを感謝いたします。
今、私は、改めて願います。 もう一度、主が私の心の王座につき、 私のすべてを支配してくださるように、・・・と。
「御霊に満たされなさい」 というあなたの命令と、 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、 神はその願いを聞いてくださる」 というあなたの約束にもとづいて、 私を聖霊に満たしてください。
あなたが、私をふたたび 聖霊に満たしてくださったことを信じて、 心から感謝いたします。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
作るのは楽しい
こないだ、すでに出来上がっていた『賛美の門』という曲の間奏をどうしようかと考えていたら、偶然的に、同じコードで別の曲ができてしまった。以来、気に入ったので よく歌っている。教会で一緒に音楽活動をしている友達とも ときどき話すんだけど、新曲って、浮かぶときは次々と続けて浮かぶものみたい。
わがやのホームページに「シュミのプレイズ&ワーシップ」というページを設けているのだけれど、実は、他にも少し、未発表のオリジナル賛美がたまっている。 育児の方が忙しくなってからというもの、新曲のMIDI化はあきらめていたんだけど、最近また「やってみようかな」なんて気持ちも湧いたりしている。
だって、創造活動って やっぱり楽しいんだもの。 それがどんなに他愛ないことであってもね。
いいにおいがしてきたぞ
昨夜から今朝にかけて 冷蔵庫の中で発酵させていたパン生地を、 目が覚めてからオーブンに入れた。 30分くらいすれば、自家製氷蔵パン? の出来上がり。 特別な素材は使っていないんだけど、モチモチしてて、美味しいんだよね。 というわけで、焼きあがるまでの間、日記書き。
デボーションメモ 1
ゆうべ、眠るときのお祈りで
「神様のご性質について教えて欲しい」
と言ったのだけど、今朝のデボーションで、
次のようなみことばを読んだ。
わたしは、自分からは何事も行うことができません。 ただ、聞くとおりに裁くのです。 そして、わたしの裁きは正しいのです。 わたし自身の望むことを求めず、 わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
(ヨハネ 5章)
イエス様って、神様としての栄光を 本当にぜんぶ捨てて、 この世に産まれ、人間として生きてくださったんだなあと思った。 『自分からは何事も行うことができない』 そして 『私自身の望むことを求めず、みこころを求める』 というセリフに、深いへりくだりを感じる。
デボーションメモ 2
「あ、ここに いつもの私みたいな質問している人がいるぞ」 と、思わず笑ってしまいそうになったのが次の箇所。
「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
(ヨハネ6章)
「何をすべきだろう」 ・・・っていうのは、みこころっていう言葉を思い浮かべたときの、 私の口癖のようなものだ。 そして、たいていそういうとき、すでに自分の心の中には やってみたいことがらというものが具体的に用意されていて、 「これですか?(だといいな〜)」 みたいな祈りになるのであった。^^;; でも、聖書の中では、イエス様はこんなふうに答えている。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
(ヨハネ 6章)
ここの問答の部分は、「いのちのパン」というテーマで ひとつの流れになっている(ダーリン談)ので、 あとで、イエス様のセリフのところだけ抜き出して もう少し考えてみたいと思う。
あ、でも、日記には書かないかも。
・・・くしくも今日は聖餐式の日。
ダーリンへの確認事項
実を結ぶ者に なる んだよね。
自分で実を結ぼう、結ぼうと努力すると、 偽善者になっちゃうよね。?
(ダーリン:「・・・うん。」)
ほっ。 神様がして下さるんだね。
聖餐式
�� 肉を食べ血を飲むということは、 キリストのからだが引き裂かれて血が流されたことを、 「自分の罪のためであった」と心から信じて受け入れること。
�� ふさわしいかどうかを吟味して食べなさいというのは、 聖餐式がどういう意味があるのかを理解しているかどうか、 また、心から信じているかどうかということについて、 ちゃんと自問自答するということ。
意味も分からず、信じてもいないのに飲み食いすると、 飲み食いしたという事実が神様に対して罪を犯すことになる。
・・・以上は、 今日の聖餐式でのメッセージ(ヨハネ 6章より)メモ。 ダーリンの手帳より。
ちょうど今朝、ふたりでこの箇所について話していたところだった。 なんてタイムリー。♪
秩序ある生活
ゆうべ、ダーリンにも話したけれど・・・ 最近の のこちゃんの痛切な願いは、 秩序ある生活を送ることだ。
寝る時間が来たら さくっと寝る。 テレビを見るなら 長さと時間帯を決めて見る。 一度「駄目だよ」といったら、 相手がどんなに泣こうがわめこうが、テコでも変えない。 言い聞かせなければならないときがあれば、 根気よく言い聞かせるけれど、 叩いて教える方がふさわしいときなら、 いさぎよくそうする。
そういうことが きっちりできていないと、 どうでもいいようなことで、 その都度、場当たり的に怒らなくちゃいけなかったりして、 非常に疲れるんだもん。
なんだか、倫太郎のワガママ病に 振り回されがちだった今日このごろ。 でも、今日からは負けないわよ。 キミだって、本当は、 秩序ある親に育ててもらったほうが わかりやすくて安心できるんだよね。きっと。
デボーションメモ1
イエス様がしたの話の要約 (ヨハネ 7章)
−−−−−
ヨハネ7章では、 「仮庵の祭り」というユダヤ人の祝いの場面が描写されている。 どうもそのとき、イエス様は�犹�の人�瓩箸いΔ�、 ワイドショー的な関心を集めていた存在だったみたい。 この章のあっちこっちで、だれもかれもがひそひそと噂話をしてるんだよね。 (あの人はいい人だ)(いや違う、俺達を惑わしてるだけだ)って。
そのせいか、実の兄弟たちまでが、イエス様に向かって
「こそこそ仕事をしていないで、
やるなら(公の場で)堂々と大きなことをやって、
自分を世に現わしたらいいのに」
と忠言したみたい。
でも、この章でのイエス様のセリフを要約してみて思ったんだけど、
そういう状況にあっても、
「まだ、自分の時は来ていないから」
って言うだけで、他人のことばに動かされたりしないんだよね。
これが私だったら、
(そうだそうだ、こんないいチャンスはない。
派手な奇跡の一つでもやってみせて、ユダヤ人の目にものを見せてくれよう)
とか意気込むに違いないんだけど。^^;;
で、結局、イエス様はこの場面で、 神様から与えられた自分の役目はどういうものかとか、 神様という方は真実な方であるとか、 そういうことばかりをきっぱりと話したのだった。
なんだかすごいなあ。
あと52日
うーーーーむ。動悸が激しい。書きながらぽっくりイッテしまいそう。
たぶん、これ、妊娠のせいなんだよね。
妊娠後期になると、
必要な血液の量も急激に増える(非妊娠時の1.5倍)ので、
赤血球なんかの生成が間に合わなくて、
一時的に水で薄められたような状態になるんだとか。
私のヘモグロビンちゃんたち、
必死で働きまくっているんだろうなあ・・・
いやー、それにしてもすごい動悸だよ。 肩のあたりで心臓が打っている感じ・・・アル中の人の禁断症状みたいに、 キーボードを打つ手までが震えている。 なんてことを書いてないで、 さっさと横になった方がいいのかな。^^;;
さっきトイレのカレンダーを見ながら数えていたら、 予定日まで、あと 52日 だってことが分かった。
がんばるぞー。
メッセージメモ
今週の週報に、先週の礼拝メッセージが掲載されていた。↓
題して、「日没から始まる人生」。うむむ、意味深ではないか。
−−−−−
『日没から始まる人生』
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています。
(ローマ 8:28)
私たちは普通、1日は朝から始まり夕べに終わると考えますが、 聖書の世界は、日没から新しい1日が始まります。 私たちの人生の中では、日没のような経験には事欠きません。 事業の失敗、受験の失敗、失恋、死別、離別、あるいはさまざまなトラブル、 孤独など。しかし辛く耐え難い苦しみの中にある時、 神様はそこから新しい業をはじめようとしておられるのです。
(1) 全能の神がおられる
すべてをコントロールしておられる神が生きておられます。 神の許しなしになにもおこりません。
(2) すべてを益としてくださる恵みと愛の神
あなたへの神の計画はわざわいで終わるものではありません
(エレミヤ 29:11)。
良い羊飼いである神様は、 あなたにかかわるすべてを成し遂げるために導いてくださいます。
「益としてくださる」とは、御子と同じ姿に内面を変えてくださり、 本当に神に喜ばれ、実を結ぶようにしてくださる、ということです。
★ 日没の経験は・・・
(3) 神を愛する人々のためには益となる。
ですから、神を愛し、愛を実践しましょう。
−−−−−
読んでいたらなんだか急に嬉しくなって、
「ダーリン、聖書の世界では、日没から新しい1日が始まるんだって!」
「益とされるっていうのは、イエス様と同じ姿に変えられていって、 実を結ぶようにしてもらえるっていう意味なんだって!」
と言ったら、
「君が今まで疑問に思っていたことが、 最近、次々と氷解させられていってるね〜」
と、からかうようにダーリン。 ・・・。そんなに笑わないでん。
○○のいぬ間に・・・
午後になっておばあちゃんが来てくれたので、
さっきから倫太郎がいないの。
いないの いないの いないの。うっきっき。
思わずパソコンに張りついています。
やっぱり今日も家事ははかどらないままなのね。
どきどき
気になる懐かしい人にメールを書いてしまった。
返事、返ってくるかなあ。
ぼふぼふっ
明日の朝のパン(バーベキュー味のベーコンロールパン) の生地をねかせている途中だったのに、 メール書きの方に集中しているうちに そのことをうっかりわすれて、 発酵が進みすぎてしまった。 おお、なんという挑戦的な膨らみ方。 なんとなく ひるんでしまうではないか。
おそるおそる手のひらで押してみると、 ぼふぼふっ という音とともに景気よくガスが抜け、 あっという間に生地は縮んでいく。
それにしても、 いつもいつも ほぼ同じ配合で生地を作っているんだけど、 その時々の湿度や気温などの影響で、 微妙に違う感じの仕上がりになるのが面白い。 イースト菌ってホントに生きものなんだな、 なんて感心してしまう。
と、気を取り直してえらそうに書いてみたが、 単に私の腕の問題だろうか・・・
まあとにかく、 今日のアクシデントは、吉と出るか凶と出るか、 明日の朝のお楽しみ・・・
アーメン・・・(思わず神頼み・・・)
ダーリンの携帯電話へのメール
痛みはだいぶ引きました。今から倫太郎が帰ってきます。豚の角煮と、ジャガイ モとともに。
書いた書いたー
昨日は、すいぶんいっぱい書いちゃったなあ。自分でも、少々びっくり。
となりでアップロード作業をしながら、
「今まで溜まってたものを吐き出したナ」
とダーリンがつぶやいている。
来た来たー
昨夜、インターネットにアクセスしたら、
わずかな時間に11通ものメールが届いていた。
受信しながら
(誰からだろう?)(送信ミスで戻ってきたかな?)(いや、スパムかな?)
などと、ひとり怪しむのこちゃん。
しかし、開いてみたところ、
なんとすべてが礼拝メッセージ。
ネットで知り合った牧師先生が、
毎週の週末に書いているご自分の原稿を、
まとめて送ってくださったのだった。ありがたやありがたや!
さっそく、今朝から数通をプリントアウトして読み読み。
使徒信条からの学び
送って頂いたメールの中に、異色なメッセージがあるのを発見した。 題して『使徒信条からの学び』。 ちょっと試験的に配信します、こういう学びは有益かどうか教えてください、 との言葉が先生から添えられていた。ふむ。
実は私、使徒信条なるものをよくしらないのだ。 今まで何回か目にしたことはあるのだけれど、 それは 教派の違うクリスチャンの方のホームページ上でであって、 ペンテコステ系の教会で正式に教わったことはない。 でも、自分たちの信仰の中核がなんであるのかを確認する上で、 とても大切なもののようだ。 今の私にとっても、きわめてタイムリーな学びだと思う。
メッセージの冒頭で、 信じるという言葉の意味についての説明がなされていた。 以下に、その部分を抜粋したい。
−−−−−
「信仰」というのは、単に観念的に、頭でうなずくというのとは違います。 もちろん、そういう部分もあるのですが、 私たちが「信じます」というとき求められるのは 「神様の中に自分をかける」「自分の存在を神様の中に任せる」 というような意味があります。
「幽霊を信じる」という言葉は、 「その存在があると思う」という意味で使われます。 しかし、「神を信じます」という言葉が聖書的な使われ方をする場合には、 「神の存在を信じる」というところが中心ではなく、 「神の主導権を認め、そのお方がいることを認めるばかりでなく、 そのお方を信頼し、人生をそのお方にかける、そのお方に任せる」 というところまで求められるのです。
−−−−−
いまさらこういうことを言うのもナンだけど、 ここを読んだとき、 (信じるって、そういう意味だったのか〜) と改めて納得してしまった。 (信仰告白って重いなあ) (なんかこう、「狭い門から入ります」っていう感じだなあ) とも思った。
洗礼を受けたときの自分の心境が、今蘇ってくる。 こわくてこわくて、不安で不安で、 できれば決断を避けて逃げてしまいたいんだけど、 でも、神様はいる、もうこれしかないっていう確信もあって・・・。 まるで、バンジージャンプの台から声もなく落ちていく人のように、 悲壮な思いで洗礼にのぞんでしまったのだったっけ。 あれでよかったのかどうか、私にはわからないけれど、 そういう自分を そのままで神様が受け入れてくれたのは、 確かなんだよな。
あのときの信仰の度合いに比べれば、 私も少しずつ救いを達成しながら歩んでいます、といえるのかな。
このメッセージの最後で、先生御自身が信仰告白をなさっていた。
『私は感謝をもって告白します。
「天地の造り主なる全能の父なる神を私は信じます。」
と。
私に良い事が起こるか起こらないかと言う事と関係なく、
聖書が教える真理として、
このことを心から告白するのです。』
・・・私もいつかこんなふうに力強く言えるのだろうか。
けれども主よ。
なによりも今、私に与えられている
このからし種のような信仰を、感謝して受け取りたいと思います。
笑った笑った
古いメールが溜まりに溜まっているので、 ちょっと整理しなければとパソコンの前へ。
そしたら、仕事中のダーリンに宛てて送ったメールなんだけど、 こんな ばかばかしいのが出てきて大笑い。↓
『のこちゃんです。
外はすごい風が吹いています。
いわゆる春の嵐というやつですね。
どうせあっという間にザンバラ髪になってしまうので、
セットする必要がなくて楽チンだなあと思いました。
おやつに杏仁豆腐を食べています。
倫太郎は静かに爆睡しています。
何かしたいな、今のうちに。』
思い出し笑い
そういえば、昔、ものすごく愉快な夢を見たことがあってさ。 けっけっけっけっけ、っていう自分の笑い声で目が覚めたんだよね。 目尻から涙が流れてるほどだったから、なんかもう、 相当激しく笑いこけてたみたい。 夢の中だと情緒も解放されるのかしらね。
そしたらさ。 ふと気づいたら、となりの布団で、ぼそぼそダーリンが祈ってるのよ。 異言で。それがなんか、すーごく真剣な雰囲気でさ。
で、しばらく考えてたんだけど、 もしかして、私が眠っている間に何かあったのかと思って、 思わず、
「・・・どうしたの?!」
って声をかけたのね。 そしたら、しばらくして、
「ユーが夜中に寝ながら笑ってるから・・・ なんか恐くなって、祈っちゃった」
だって。
そのことをさっき急に思い出したら、おかしくってさ。 夜中だっていうのに、またまた笑いが止まらなくなって、 とうとう日記に書きに起きてきちゃった。
さ、気が済んだからもう寝よう。
七夕
検診のため、産婦人科へ行く。1週間ぶりの外出・・・かな?
よく晴れているし、適度に風もあっていいお天気なので、 なんだかとても幸せな気分。 おふとんをベランダに干してから出かけることにしよう。 2ラウンド目の洗濯物は、帰って来てからね。
9時の予約だったのに、遅刻して9時半についたせいか、 待ち時間ゼロで診察室へ。 次回からもこの手で行くかな。
で、帰りはバスに乗り、
スーパーがたくさんある 大き目の停留所で下車して お買い物。
錯覚だと思うんだけど、どうも、まわりのおばちゃんたちが、
ものすごいスピードで品物を選びながら
レジに進んでいく気がしてならない。
しばらく家でおとなしくしているうちに、
すっかりのんびりやになってしまったのかなあ、私・・・。
ま、いいやね。
念のため休憩を、ということで、近くのミスタードーナツに入る。
外食(しかも甘いもの)なんて久しぶりなので、
ちょっとわくわく。
お、しかも、なんかセールをやってるみたい。
5種類くらいの商品が、77円になってる。・・・ははあ、なるほどね。
七夕にちなんでの値段なんだって。
じゃ、セコイけど、この中から二つ頼もうかな。
大きくて元値の安いのと、小さ目だけど元値の高いのとがあるんだねぇ。
どっちを選ぶのがお得な感じかなあ・・・って、
ますますセコイわね。^^;;
聖書の学び メモ1
●悔い改めのステップ
私たちが自分の生活を吟味するとき、 聖書の基準による「現状認識」と、信仰告白による方向転換は絶対に必要。 自分は何を信じ、どうあるべきなのかを確認することはとても大事。 また、聖霊の語りかけと促しに敏感な感受性を持つことが必要。
「荒野で叫ぶ者の声がする。 『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」
(ルカ 1:76)
まず、私たちの現状が「荒野」であることを、 しっかり認識して見つめる。
「荒野」とは・・・
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、 神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
(ルカ 3:2)
神様からの言葉がヨハネの心を捕らえ、 ヨハネはまさに聖霊に打たれたような気持ちで、 抑えきれずにその使命を果たすべく、活動を開始する。
このような聖霊のお働きを歓迎し、 聖霊の促しに答えますという姿勢が必要。 それは、みことばを心にとどめながら静まること、 感謝を捧げながら待ち望むことから始まる。 聖霊は、みことばが語られている まさにその中に働いておられるお方であるから。
がなおもこれらのことばを話し続けているとき、 みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
(10:44 ペテロ)
聖書の学び メモ2
●悔い改めの実
悔い改めの実を結ぶためには、まず、その行為、その思想自体、 その人全部が十字架のもとにさらされ、 イエス様に取り扱っていただく必要がある。 反省や謹慎を越える「悔い改め」が私たちの教会に訪れますように。 「清さを求める心、謙遜、誠実、愛」などの 悔い改めの実を結ばせていただこう。 真の礼拝者として、神様の前に立つために。
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。 よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、 アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
(ルカ 3:8)
ユダヤの人たちの心には、俗に言う「選民意識」があった。それは、 (私たちはアブラハムの子孫なのだから、 きっと神様は祝福してくれるに違いない) (私たちは、異邦人とは違う取り扱いを神様から受けられるに決まっている) という宗教的優越感と何とも横柄な民族主義であった。 ヨハネはまず、この「心の内側にある高慢さ」に対する悔い改めを教えた。
・私たちへの摘要
ただ、これらは心の内側の問題なので、 ヨハネは「悔い改めの実」を具体的なかたちで求めている。 悔い改めは言葉だけの決意ではなく、 実際の生き方に反映される必要がある。 つまり、問題は、口先で「ごめんなさい」を言えるどうかではなく、 本当にそう思って、考えも行動も変えているかどうかである。
群衆はヨハネに尋ねた。
「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
彼は答えて言った。
「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
(ルカ 3:9)
・私たちへの摘要
取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。
「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
ヨハネは彼らに言った。
「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
兵士たちも、彼に尋ねて言った。
「私たちはどうすればよいのでしょうか。」
ヨハネは言った。
「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
(ルカ 3:13-14)
続いて、不正ではなく正義に基づいて商売をし、 正義に基づいて人との関わりを深めるように奨めている。 人を踏みにじったり、陥れたりしないように、 不当な不利益を被らせないようにと奨めている。
・私たちへの摘要
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」
(第1テモテ 6:6)
また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、 殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、 愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
(マルコ 7:20-23)
・私たちへの摘要
実は、悔い改めは個人の問題ばかりでなく、 教会全体に大きな影響をもたらすものでもあることを認識する必要がある。 本気で悔い改めなければ、あなた個人の礼拝が「汚れる」ばかりでなく、 教会全体がそれによって「大きな妨げ」を受けることにもなってくる。 そして、その人も教会も倒れることになる。 黙示録にある教会への警告は、そのことを如実に語っている。
また、奉仕や献金は、そのまま、悔い改めの代替物にはならない。つまり、 どんなに奉仕をしても、どんなに献金をしても、どんなに教会に出席しても、 それが悔い改めの代わりにはならない、ということも知るべきである。
かめちゃんありがとう
ちょっと前のことなんですが、京都在住のかめちゃんが、 私のオリジナル賛美をすてきなMIDIにしてくれました。 よかったら聴いてね。初公開です。↓
『主イエスを礼拝するために』 作詞/なおちゃん 作曲/のこちゃん 編曲/かめちゃん 主イエスを礼拝するために 私は生まれてきた この地に 主イエスを賛美するために 私は生きている 今この時 ああ この手を広げ 心を開き 唇の果実と愛を捧げよう 造り主なる主 イエスに 救い主なる主 イエスに
かめちゃんのホームページは こちら です。実は、この曲の他にもたくさんの曲を編曲していただきました。 音楽の好きな方は、ぜひ遊びに行ってみてね。
目覚めとともに
昨日は
「本当の悔い改めを与えてください」
と祈ったのだけど・・・
今朝、
(ああ、私は『神様を敬うことを知らない女』だった)
という実感とともに目が覚めた。時計を見ると4:30だった。
なんだか、胸を突かれた感じ。
続いて、バプテスマのヨハネのセリフを思い出した。
「私はこの方の靴のひもを解く値打ちもありません」(ルカ 3:16)
以上、6日分です。
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