語られていることメモ
・小さなこと、隠れたことに忠実に
・従う
・伝道
・自分に死ぬ
以上4点が最近のテーマ。
どうも、この4点は一つながりになっているみたいだ。
人の目にほとんど触れないような、本当にささやかな事柄、
神様から以外にはなんの評価も報酬も受けられないような小さな事柄、
実は、そういったことに忠実に励むには
自分に死ぬことが必要なのだが、
それがすなわち神に従うこと、そして
伝道することに直結していく。
語られていることメモ 2
あなたは、
「神から語られた」ということに満足してしまって、
その後、神のみむねに従って行動するということを
忘れてはいないだろうか。
あなたは、ヨナのように、
神の語りかけを聞いた後、丘に上り、
そこで、ニネベの街が滅ぼされるのを
じっと待ってはいないだろうか。
あなたのその態度はよくない。
わたしがあなたに語るのは、
あなたにそのことを示して、祈らせるためだ。
わたしは、あなたに裁かせたいから、
もしくは、本当に滅ぼしてしまいたいから
そのことをあなたに語っているのではない。
むしろ、まったく違う。
わたしは愛し、心から惜しんでいるのだ。
語られたあなたは、
必ず、その語りかけへの応答として
祈りというアクションを起こさなければならない。
ヨナに学び、そのことを覚えておきなさい。
主は、
神の愛、神のあわれみという立場に立って
とりなす者はいないかと
諸国の間を探しまわっておられる。
倫太郎語録
りんちゃんは、
かみさましんじてるよ。
(どうして?)
だって、
ダビデだって、ちいさいけど、
かみさましんじてたでしょ?
だからだよ。
うん。
(そっかあ、すばらしいね!)
倫太郎語録 2
うさぎは、
どぉぉぉぉぉして
にんじんがすきなの? ×∞
(えさを食べさせながら、しきりに)
メーリングリストから
20:22 悪に報いたい、と言ってはならない。
主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。
20:22 Do not say, "I will recompense evil";
Wait for the Lord, and He will save you.
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不義や不正に対して憤りを感じることは、
正しいことであり、
それは私たちの心から
消されてはならないものだと思います。
しかし、それをいいことに、
怒りを爆発させ、
いじめや仕返しを考え、
あるいは傷つけ、殺し
「これが正義なのだ」と考えることは、
決して正しいことではありません。
実は、私たちは
「悪に報いる」という錦の御旗を掲げて
罪を犯すことが多いのです。
悪に報いるといって、
その人を殺したり、
国であれば戦争をすることだって
少なくありません。
しかし、それによって
本当の平和は決して訪れることはありません。
「見返りを求める」ということも
なんとなく心の乏しさを感じますが、
「仕返しを考える」こともまた、
心の狭さを感じます。
親が子供に対して
そういう心を持っていたら不幸ですね。
そのどちらにも、
愛が不在なのです。
あなたの憤りを神様はご存知です。
その涙も不当な取り扱いによる胸の痛みも寂しさも
神様はご存知です。
憤りを怒りに変えて、
そのまま、その相手にぶつけないで、
神様にもっともっと愚痴をこぼしてみてください。
感情に対して感情で応答してしまうと、
どうにもならないほどの
深い溝ができてしまうことが多いようです。
気がついたら相手を傷つけていたり、
児童虐待とかストーカー的な行為とか、
そういうことにエスカレートしていく可能性が
誰にでもあります。
神様に愚痴をこぼしながら、
もう少し、穏やかに
日常を送れるようになれたら
すばらしいと思います。
「もういいよ。
ごめんね、私にも
足りないところがあったと思うよ。」
とお互いに言える関係を
多くの人と築きたいものです。
いや、多くなくてもいいのかもしれません、
せめて、
家族や友人、大事な人たちとは
そういう関係を保持したいですね。
それを言い出せる勇気と愛が
増し加えられますように。
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Kazuo Sekine
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語られたこと(12月28日のメモより)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。(マタイ11.28−30) 人に対してではなく、 神に対して新しいくびきを負い 解放されて生きなさい。 あなたに油を注いでいるのは なによりもまず、 あなた自身を癒すため。 あなたにみことばを与え 古いくびきから解放するため。 人の子が来たのは、 仕えられるためではなく、 かえって仕えるためであり、 また、多くの人のための、贖いの代価として 自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ11.45) あなたに油を注ぐことによって わたしがあなたから 「何かを得ることを期待している」 のではありません。 むしろ、わたしがあなたに仕え、 あなたにいのちを得させたいと思っているのです。 愛には恐れがありません。 全き愛は恐れを締め出します。(第�汽茱魯� 4.18) 人に対するあなたの恐れ、 その根本的な問題は、 神によって解決されます。 預言の奉仕を通して あなたの心に すばらしい解放の恵みが訪れます。 ヨナ書を読みなさい。
神の形をした穴
人の心には、神の形をした穴が空いているという たとえばなしを聞いたことがある。 自分の心臓のあたりに、 ちょうどクッキーの抜き型で抜いたように 小さな人形の形の穴が空いている、 それが「神の形をした穴」・・・ そこにイエス様がぴたっとはいっちゃったんだなあ、 そんなことを想像したものだった。 何日か前の夜、 布団の中で感謝の祈りを捧げていた。 いのちが救われていること、 衣食住に足りていること、 家族の中にこれといった問題もなく平和に暮らせていること、 捧げるに十分なお金も与えられていること、 結婚して、子どもが二人も生まれたこと、 健康であること、などなど、 きりがないほどの恵みを数え上げながら、 (私ってホント、幸せだよなあ) と思いながら祈っていた。 しかし、 そのとき、ふいに、 次のような感覚に襲われたのだった。 −ほんとうの私は空洞だった。 −体全体が大きな大きな穴で、輪郭しかなかった。 −そう、まるで私自身がクッキーの抜き型であるかのように。 −私は、まだ満たされていない神の穴そのものだったのだ。 言葉ではどうにも言い表せないような でも、恐怖とは違う深い空虚さを味わいながら、 思わず 「もう、あなたに救われる以外、ありません」 「私を完全に召してください」 と祈っていた。
大雪
とめどもなく雪が降っている。
今年2回目の雪景色に、子どもたちは大喜び。
夕方からE先生のお宅へ出向き、
食事をごちそうになる。
帰りは雨。
語られたことメモ
幼稚園のことで祈っていると、
「ヨシュアとカレブのように、
出ていって、その地を占領せよ」
と語られたように思った。
ヨシュア記はまだ読んだことがないので
布団からごそごそ抜け出し、聖書を開く。
全部で24章。
長い。
やだやだ
神様の要求されるレベルが、
急に高くなったように感じる。
罪とか義とか、
そういうことに対してのセンサーが、
以前よりずっと鋭くされた気がする。
たとえば「分け与える」
ああ、これだけは私にもできる・・・
というか、賜物があるところ、得意分野・・・と思ってたのに、
実は、いろんな条件付きじゃないと
できない自分だったのだ、ということを、
ささいなことから知らされている。
へきえき。
“求めるものには与え、 借りようとするものを断ってはならない”マタイ書
捨てなさい
去年の末に、こんなお祈りをした。 私が取り次いだ預言のことで、 ちょっとしたトラブルがあったときだ。 「神様、私は油注ぎを感謝するとともに あなたを心から畏れています。 そして、私が受け取っているすべてのものを吟味するために、 適切なオブザーバーが必要だと痛感しています」 すると、すぐさまこんなふうに語られたように感じた。 「聖書以外の情報源をすべて捨てなさい。 テレビも、インターネットも、有名な説教者の聖書解釈も、 キリスト教関係の雑誌も、新聞も、 あなたには何も必要ない。 むしろ、からっぽになりなさい。 それが、あなたにわたしが求める“断食”だ」 それから、 「わたしはあなたを密室に連れて行きたいのだ。 あなたとふたりだけになりたいんだよ」 と・・・。 この語りかけは、実は 2年ほど前からぼんやりと私の心の中にあった (インターネット、 やめなくちゃいけないような気がするなあ) という思いと同質のものであった。 それで、観念して“断食”に入ることにしてみた。 最近になって、ようやく 神様が自分に求めておられるものが どういう質のものか、つかめてきた気がしてきた。 当たり前のことなのだが、 神様は、私が、神様以外のなにものにも 支配されてほしくないと思っておられるのだ。 神様以外のものは、 たとえそれが奉仕と名のつくような尊い行為であっても、 いつでも惜しまずに投げ出すことができるように 私に望んでおられるのだ。 そのことについての 私への取り扱いは、執拗で厳しいように思う。 こうやってちんたら書いていると、またあとで 後悔して祈るはめになりそうだ・・・(笑)
将来についてのまぼろし
先日、教会の姉妹が電話をかけてきて、 開口一番、 「のこちゃん、素晴らしい!」 と言うので何かと思ったら、 私の将来のことで、預言的なまぼろしを与えられたというのだ。 うちの教会では、教役者の吟味を経ない 個人への預言は禁じられているので、 「預言じゃなくて、励ましだと思ってね」 と彼女も言っていたけど、 告げられたその内容は具体的で、どう考えても あんたそりゃ預言だよとしか思えなかったので、 私も一応、眉につばをつけつつ 慎重な態度で聞かせてもらった。 面白かった。 彼女に、まぼろしと共に与えられた 私へのみことばは、 主の祈りの中の 「御国が来ますように」。 そういえば、このみことばで始まる賛美があったなあ、 などと思い出す。 でも、自分でその内容について祈ってみても あまりに遠い将来のことなのか、ちっとも手応えがない。 今はきっと、根を詰めて祈るでもない、 そういうレベルのものなんだろうなあ。
以上、4日分です。
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